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環世界、世界、そして外部へ


1.《環世界》~生物学の観点から~

私たちは、すべての生物にとって客観的な世界があり、各々の生物はその環境内で同じ時間と空間を共有しているのだと考えがちである。

ところが、二十世紀最大の動物学者の一人であるヤーコプ・フォン・ユクスキュルによれば、世界は一般的に理解されているような単一的なものではなく、動物各々が主体的に構築している無限の多様性をもった知覚世界(ユクスキュルはこれを《環世界》と呼んだ)であるのだという。例えば、マダニという動物は嗅覚や温度感覚が非常に優れている代わりに、視覚・聴覚・味覚といった感覚器官を一切欠いている。ユクスキュルは、マダニの《環世界》を次のように描写している。

イヌを連れて森や茂みの中を歩きまわることも多い田舎の住人なら、茂みの小枝にぶらさがって獲物を待ち伏せているちっぽけな動物を知っているにちがいない。そいつは人間であれ動物であれ、その獲物に跳びついて生き血を腹いっぱい吸う。すると、一ミリか二ミリしかなかったこの動物はたちまちエンドウ豆大に膨れあがる(…)まず、肢がまだ一対足らず、生殖器官もまだない未完成な小動物が卵から這いだしてくる。この状態ですでに、この小動物は草の茎にとまって待ち伏せ、トカゲのような冷血動物を襲うことができる。何度も脱皮をくりかえしたのち、欠けていた器官を獲得し、いよいよ温血動物の狩りにとりかかる。 雌は交尾を終えると、八本肢を総動員して適当な灌木の枝先までよじのぼる。これは、十分な高さから下を通りかかる小哺乳類の上に落ちるか、大型動物にこすりとられるかするためである。 この目のない動物は、表皮全体に分布する光覚を使ってその見張りやぐらへの道を見つける。この盲目で耳の聞こえない追いはぎは、嗅覚によって獲物の接近を知る。哺乳類の皮膚腺から漂い出る酪酸の匂いが、このダニにとっては見張り場から離れてそちらへ身を投げろという信号​(Signal)​として働く。そこでダニは、鋭敏な温度感覚が教えてくれるなにか温かいものの上に落ちる。するとそこは獲物である温血動物の上で、あとは触覚によってなるべく毛のない場所を見つけ、獲物の皮膚組織に頭から食い込めばいい。こうしてダニは温かな血液をゆっくりと自分の体内に送りこむ。 人工膜と血液以外の液体をもちいた実験で、マダニには味覚が一切ないことがわかった。膜に孔をあけたあとは、温度さえ適切ならばどんな液体でも受けいれるからである。 酪酸の知覚標識​(Merkmal)​が働いたのちに、ダニがなにか冷たいものの上に落ちてしまった場合は、そのダニは獲物を射止めそこねたわけで、もう一度見張り場に登りなおさねばならない。 このダニにとってたっぷりの血のごちそうはまた最後の晩餐でもある。というのは、彼女にはもう、地面に落ちて産卵し死ぬほかになにもすることがないからだ。

(ユクスキュル・クリフォート『生物から見た世界』
日高敏隆・羽田節子訳)

以上のことから分かるように、マダニは酪酸の臭い、摂氏三十七度の温度、体毛の少ない皮膚組織という三つのシグナル(ユクスキュルはこのような各々の動物が関心を惹く諸要素を〈意味の担い手〉と呼んだ)の連関によって動いている。しかし、逆に言うならマダニにとってそれ以外の現象は存在しないということだ。視覚を持たないマダニの《環世界》には、被食者であるはずの哺乳類は存在しない。マダニにはいま自分が飛びかかろうとしている獲物が、鹿か猿か人間かも認識できないのである。それどころか、摂氏三十七度に温めさえすれば、どのような液体にも吸い付くマダニにとって、自らの糧となる哺乳類の血液もまた《環世界》の外部にある。

2.《世界》~存在論の観点から~

ドイツの哲学者であるマルティン・ハイデガーは、このような動物の《環世界》に由来した存在様式を世界貧乏的であるとみなし、人間だけが《環世界》に依拠した特定の価値を付与することなく、《世界》を《世界》として(太陽を太陽として、岩を岩として…)経験できるとした。

ハイデガーはユクスキュルの著書の中から、ミツバチについて行われた実験のテクストを取り上げている。まず、蜂蜜をいっぱいに充たしたグラスの前にミツバチを置いておき、ミツバチが蜜を吸いはじめた段階で、ミツバチの腹部を切断する。すると、穴のあいた自分の腹部から蜜が漏れるのもお構いなく、ミツバチは蜜をそのまま吸い続けるというのだ。ハイデガーによれば、動物は自己にとらわれ、放心状態にある。それに対し、人間は衝動から自由であるからこそ、《世界》そのものに関わり、《世界》を形作っていくことができるという。

ハイデガーによれば、人間にとって《世界》は〈有意義性〉として立ちあらわれてくる。現存在(ハイデガーの用語で、いま、ここにいるわたしというような意味)は、道具的な存在者(人に限らず、存在するもの一般)に配慮し、他者を顧慮している。例えば、ハンマーは釘を打つために、釘は木材を固定するためにと「~のために」につき従っている。ハンマーは呆然と眺められるのではなく、それを実際に手に取り、振るわれることによって現存在から存在を〈了解〉されるのである。

3.《外部》~倫理学の観点から~

熱心なナチス党員であったハイデガーと、ナチスドイツによって近親者のほとんどを虐殺されたユダヤ人の哲学者、エマニュエル・レヴィナスとの関係は対照的である。戦前にはむしろ、ハイデガーの思想に強い共鳴を受けていたこの哲学者は、戦後になってそれが生み出したものに愕然とし、転回を余儀なくされることになった。

ハイデガーによれば、あらゆる存在者との関係は〈了解〉に帰着する。だとすれば、他者もまた現存在によって〈了解〉されることになるだろう。これに対し、レヴィナスは他者とは根源的に〈了解〉をはみ出し、私の知の一切から逃れ出る存在であると、ハイデガーを猛烈に批判する。

歴史や環境や習慣などに基づき、〈了解〉される他者とは、あくまで現存在という一個の同一性の回路(レヴィナスはこれを〈同〉と呼んでいる)の中に取り込まれている。レヴィナスの考えでは、他者は〈他〉であるからして、こうした〈同〉への還元を絶対的に拒絶するものであり、その意味で《世界》の《外部》なのである。

例えば、私が会社の同僚に「おはよう」と挨拶する時、私はその同僚の社会的性格やこれまで築いてきた関係性に基づき、挨拶を返してくれるものと期待している。これがハイデガーの言うところの存在了解であるのだが、実際には相手に黙殺される可能性もあるだろうし、また出会い頭に殴られることだってありうるかも知れない。他者は〈他性〉のゆえに、私と相互理解が成り立つことを全く前提としていない。他者とは根源的に汲み尽くせない《外部》なのであって、驚異という感情とともに私達のもとに到来し、〈了解〉という〈同〉の体系を異議提起していくものなのだ。レヴィナスによれば、私が他者を同定し続ける限り、逆説的ではあるが世界の内に私も他者も存在しない。私は他者から切り離されることによって始めて-すなわち、対話というプロセスを通じ、私によって所有された《世界》が他者に問い質されることで始めて-この《世界》に現成する。このように、私は他者との契約を結ぶ以前に、他者に対して無限の「負債」を負っているのである。それは言わば借用に先立つ借財、契約に先立つ責任であって決して果たされることがない。

もう一度、挨拶の話に戻ろう。私が同僚に「おはよう」と挨拶する時、私は同僚に黙殺されたり、殴られたりするリスクを引き受けながらそれを行っている。いわば、私は他者の応答の一切に責任を負っているのだ。限りなく剥き出しにされ、どうしようもなく他者に曝されているこの私という悲惨な存在は、誰も身代わりに立てることが出来ないという意味で唯一的である。

私という同一性の回路に取り込まれた《世界》は、ナチズムや帝国主義といった一個の全体的な価値観(レヴィナスは、これを〈全体性〉とよぶ)に〈同〉化してしまっている。こうした《世界》を異議申し立てするには、この私という自同性を絶えず揺さぶりかけ、危機に曝す必要がある。他者との対話とは、対話者同士の相互理解が根源的に不可能であることを私に思い起こさせ、〈全体性〉の《世界》に裂け目を生じさせるための一つのプロセスなのだ。そしてまた、この対話は終わることがない。というのも対話が終わった時、私と他者という存在は〈全体性〉という《世界》にまた回収されてしまうからである。


【参考資料】

  • ジョルジョ・アガンベン(2022)『開かれ』岡田温司・多賀健太郎訳、平凡社

  • ユクスキュル/クリフォート(2017)『生物から見た世界』日高敏隆・羽田節子訳、岩波書店

  • 國分功一郎(2023)『暇と退屈の倫理学』、新潮社

  • 熊野純彦(2006)『レヴィナス入門』、筑摩書房

  • エマニュエル・レヴィナス(2020)『全体性と無限』藤岡俊博訳、講談社

  • 田中雄祐(2016)「レヴィナスの正義論」、『政治哲学』、20号

  • 内田樹(1991)「レヴィナスとカミュ—存在論から倫理へ—」、『神戸女学院大学論集 』、38巻第1号

  • 宮川大河(2019)「ハイデッガー『存在と時間』における「現」と「世界」」、『学習院大学人文科学論集』、28号

  • 高井寛(2016)「私が私であること:ハイデガーとレヴィナス」、『Heidegger-Forum』、vol.10

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