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雑感記録(160)

【孤独と感謝と】


12月に入った。何だか周囲も徐々にせわしなく動き始めている。しかし、何に向かってせわしなく動いているのか。クリスマスそして年末という大義名分のもとにただ何の思考もなく、ただそれに突き動かされているような気がしてならない。それはそれで構わないけれども、そういった毎年決まったある種のルーチンに翻弄されている。僕もそれに身体と精神共に毎年流されている。というよりも、面倒くさいから流れに身を任せている。

そういう中に身を置いていると疲れてしまう。僕は現にそういう流れから抜け出したくて、せわしない「フリ」をして過ごすようにしている。別に僕には急ぐようなこともなければ、何かをしなければならないということもない。つまりは12月と言ったって、それは1年という周期の中に於けるうちの1つであって何かしらそこに特別感をわざわざ持たせる必要はないのである。だけれども「12月は1年のうちで特別な月だ」と社会的にそういう意識を根付かせているのである。

こういう時、僕は何だか置いて行かれるような気がする。それは勿論、自分自身でそういった流れに抗いたくて、いや抗いたいという訳でもない。ただ通常のいつも通りの日常を送りたいのに、外を出れば、スマホを見れば、パソコンを見れば皆が皆「クリスマス」「年末」に向かって突き進んでいく。僕は12月が嫌いだ。


12月はこういうこともあり、1年の中で気が滅入るというか、タイトルにもあるように「孤独」を強く感じる月でもある。それは単純な話で、せわしない空気の流れに僕は乗る「フリ」をしているので、実際にその流れには乗れていない訳である。当然の如く、その空気に振り落とされる。そういう流れに乗れない者たちは排除される。

加えて、僕は物理的に1人暮らしをしていることもあって気軽に誰かと会って話したりすることが難しい。こういう変な話をしても「あっそう…」とか反応してくれる人はいないし、日常に起こったことを気軽に話せる人もいない。別にそういう人たちが身近に欲しいとまでは言わないけれども、それでもほんの少しの寂しさと日々の思考のフィードバックを得られないことが何よりも辛い。

いやいや、何を言ってるやら。仕事で人と物理的に会っているじゃないか。そこで話をしているじゃないか。と。違う。そうではない。そこで話される会話は所謂会社のエクリチュールがある訳で、そこで話される言葉は僕の話したいことを話せる訳ではない。それに会社の人に合わせた(というと失礼な言い方がしなくもないが)会話をするので自分の話をするのはほぼ皆無である。

家に帰っても誰かが既に居る訳ではなく、帰宅後はスーツを脱いでちょこちょこっとした家事を済ませ、夜ご飯をつくり大きいモニターを目の前にして黙々とご飯を駆け込む。映画やアニメを垂れ流し「この表現が良いんだよ」と誰かに話す訳もなく、自分の中でそれを蓄積蓄積蓄積…。そうしてこういったSNSの媒体に書き込み整理する。あるいは本を黙々と読み耽り、気が付けば夜遅くになり、次の日の仕事のことも考え眠りにつく。

この生活が続く。10月から僕は東京に来て、最初はその生活自体に慣れなければならないからこんなことを考える余裕も無かったけれども、慣れてくると余裕とでも言うのか?余計なことまで考えてしまう時間が増えてしまうのである。だから最近かなりnoteの更新頻度が高い。書きたいことが沢山あるということは、日々感じることが多い、感じる余裕が出てきたということなのだろうと思う。これが良いことか悪いことは別にして。


外面的では充実した生活を送っているような内容、無論生活は現に充実しているし、僕の生活もかなり文化的に向上しており環境的には問題がない。ただ、何と言うか…対話の場所が僕にはないのである。

何だか都会の文化レヴェルの高さにかまけて、僕は本心を隠しながら生きているのではないかと思ってしまったのである。ここまで言葉を弄して書いているが、結局僕はただの寂しがり屋なのであるということなのだ。誰かに何かを伝えたいし、誰かに自分の出来事を話してということをしたいのだ。だからこうしてnoteを書き続けているし、Instagramのストーリーを頻繁に更新しているかもしれない。

こういう時に、ある種SNSに頼ってしまうのは僕の弱さが露呈してしまっているという気もしなくもない。別に誰かが反応を返してくれることをこちらとして望んでいる訳ではないけれど、「僕の投稿が見られている」ということにどこか安心感を覚え、その寂しさを埋め合わせてくれると勘違いしてしまっている。本当の繋がりというものがそこに在るとは微塵も思っていないが、こういう偽物の繋がりで満足してしまうぐらいに僕は弱い人間なのだ。

現にこうして、自己憐憫なことを只管書き連ねている訳だけれども、これも「誰かに僕のこの気持ちを知ってほしい」という気持ちが僕にはなくても、書くという行為、言葉にしてしまうことで僕が意識しなくてもそこに現れてしまうのである。だから、ここで僕が「いや、そんなつもりはないんだ」と言っても無意味だ。書かれるということは少なくともそういう「分かってほしい」という気持ちがあるのだ。

僕は先に「孤独」を感じると書いたけれども、実は「孤独」ではないのではないかと思っている。それはこうして何かを表現できる場、つまり自分自身を手軽に気軽に表現できる場を与えられている限りは本当の意味で「孤独」ではないのではないかと思うのである。つまりは、どれだけ嘘っぱちでも、どれだけくだらないことでもSNSで色んな人と繋がれて「しまう」ということが現実としてある訳なのだ。

しかし、だからと言って何でもかんでも言っていい、書いていいという訳ではないと僕は思う。何と言うかこういうSNSに汚辱されても、僕は一定の秩序というか自分の中に言葉には出来ない抵抗?というかモヤモヤを抱えながらSNSと向き合っている。ただ少なくともここ数日で判明したことは、もしかしたら、いや、もしかしなくとも、僕は寂しさを埋め合わせるために、かりそめの繋がりが欲しいためにSNSをやっているのではないかということである。

と書いてしまった訳だが、これに抗いたい自分も存在する。「いや、俺は自分の好きなことを表現したい」「自分の考えていることをただ書いているだけなんだ」「そういう場が欲しかっただけなんだ」と。しかし、今更何を書いても遅い。既に僕は上記で実は…ということを書いてしまったのだから。

じゃあ、僕もせわしなさの流れに身を任せて、こういう「孤独」を忘れるように努力すべきなのだろうか。こういう寂しさを紛らわせるために忙しさに身を投じ、今までとは異なる生活様式というか、それに伴った精神様式になる必要があるのだろうか。そうすれば、この寂しさを埋め合わせることが、「孤独」を紛らわすことが出来るのか?


僕は今日、朝から本屋に向かった。

ポール・ド・マンの『読むことのアレゴリー』を購入しに何店舗か巡った。僕がしでかした失敗は、前日にSNSで「明日ポール・ド・マンを買いに本屋巡ってきます」みたいな趣旨の投稿をしてしまったことである。別に行くなら勝手に行けばいいだけの話で、わざわざそれを表明する必要も決してない。やってしまったと思いながら、しかし今更それを削除するのも馬鹿馬鹿しくて、そのまま放置している。

それで高田馬場のBOOK OFFに向かったのだが、かつて通っていた店舗とはレイアウトがかなり異なっていた。僕がかつて愛していたものが一斉に消え失せ、哀しさを覚えた。何だかここでもまた寂しさを感じてしまう。何だか最近出かけても寂しさや哀しさを覚えることが多いのは何故だろう。

そこから行きたくも無かったが、池袋に山手線で向かいジュンク堂へ。ジュンク堂に行けばあるかなと思ったのだが、何と悲しいかな。無かった。ポール・ド・マンのコーナーはあったものの、『読むことのアレゴリー』は無かった。結局その場でAmazonのアプリを開いて注文した。しかし、せっかくここまで足を運んだのだから何か買っていくかと思い、他のポール・ド・マンの本を購入してジュンク堂を後にした。

ここから池袋駅に戻って山手線で新宿の紀伊国屋に行こうかなとも考えたけれども、このせわしなさの流れがどこかしこに埋めく駅周辺に寄りたくないと思い池袋から自宅まで2時間掛けて歩いて帰ることにした。


僕は大学時代から散歩が好きだ。東京での散歩は唯一運動と言える中で好きなものである。僕は歩きながら、街の景色を愉しみながら歩く。駅から少し離れるだけでそのせわしなさの流れからある程度は抜け出せる。そこには日々懸命に生きている人たちの営みがある。都会では感じられないと思っていたけれど、何だかこういうちょっとした生活感が現れる瞬間が好きである。

今日は雑司ヶ谷あたりをぐるっと回りながら帰ろうと思い、雑司ヶ谷を突っ切り目白通りをひたすら歩き続けた。近くには日本女子大学があり、歩けば歩く程、見目麗しい女性ばかりが目の前に現れてくる。何だか少しだけ心が若返ったような気がしなくもないが、こう感じてしまいながら歩くと自分が変態みたいな気がして恥ずかしくなってくる。しかし、美しいものは美しいのである。

文京区をプラプラして歩いていたのだが、何と言うか凄く雰囲気が良くかった。銀杏並木を歩きながら景色を愉しみながら、そして今こうして書いていることの内容の如きものを考えながら歩く。すれ違う女性。ふわっと香るほのかな匂い。なんの香水なんだろうな…と思ってみたりもしたが、これ以上考えたら危ないと思いひたすら歩き続ける。

すると、突如として公園が現れる。大きい公園ではなくて、本当にちょこんとある小さな公園。太陽の光が眩しい。その光が僕を誘った。

公園に入るとスーツを着たサラリーマンがベンチに座ってボーっとしている。僕も彼が見ている方向に眼をやる。その時、何だか僕は感動してしまった。これは何度も言うようだが「心が真に動かされる」という意味での感動である。

僕は写真が得意ではないので、本当はもっと美しい景色だったのだけれども…。些かこの感動を僕の言葉で伝えるのは心許ない。何だろうな…。この時にどういう感情がとかどういう思考がとかではなく、純粋に「美しい」ということだけ思っていたんだろうと思う。

それで不思議と何だか、これまで考えていた「孤独」に関することやSNSとの向き合い方を考えてどこか陰鬱になっている気持ちが晴れた。正しく晴れたのである。俗世間で一般に分かりやすく言われてる言葉で言うところの「どうでもいい」という感情だ。馬鹿だな自分と不覚にも思ってしまった。


僕ははたと気付かされる。「何物も自然の美しさには敵わねえな」ということだ。僕が感じる「孤独」とかSNSで寂しさの埋め合わせをしているというのは確かに事実である。しかし、それを飲み込んだとしても僕の中で「この美しさの前では何物も意味をなさない」と感じたのである。人は美しい瞬間に出会うと何物もどうでもよくなってしまうのだと気づかされた瞬間であった。

僕はその景色の美しさの余韻に浸りながら文京区を闊歩する。しかし、文京区は個人的にだがどこかしこも僕の好きな雰囲気である。この景色を見たからとかではなく、何だか温まるようなそんな街の雰囲気であった。電車で帰らなくて良かったと改めて思われて仕方がない。

それで話は戻る訳だけれども、僕は寂しさの埋め合わせでSNSをやっているのではないかと書いた。そうではない思いたい自分自身のプライドもある訳だが、そんなのこの美しさの前ではチンケな問題でしかない。どうでもいいと感じられた。例え寂しさの埋め合わせだっていいじゃない。それ程までに僕は弱い人間なんだよ。ということ以外にないのである。

だから、抗おうとして言う自分を認めることが大切だ、というかそれも自分なんだよなという心を持つ事が肝心だと気付かされる訳なのだ。相反することを考えていても、考えている存在は自分自身1人である。これをデカルト的にとか、柄谷が言うところの「他者性」とかそういうことを考えるのも大事だけれども、そういった哲学で語れないことも世の中にはある。

何だか凄い欺瞞的な文章を書いているんだけれども、でもそれが僕なんだなとも思う訳だ。どれだけ自分自身で正当化しようとしても、正当化しきれない自分も存在する。


僕のこの記録を読んでくださる方、そして各種SNSをフォローして頂いている方々にまず以て多大なる感謝をしたい。

こんな僕の寂しさを埋め合わせるような自己憐憫溢れる投稿や、実にくだらない投稿を見てくれている。あるいは眼にしたくなくても眼に入ってしまうという場合が色々とあるかもしれない。それでも有難いことこのうえないのである。

これからもそういった投稿が目立つかもしれない。というか、そういう投稿が増えるかもしれない。自分でも何とか抗おうと頑張ってみますが、そういう投稿した時は「弱い人間やな」と笑って無視してください。それもそれで僕な訳なんです。ビックダディじゃないけど、「俺はそういう人間だ」。

特にInstagramのストーリーなんかは僕のどうでもいい、それこそ「勝手に1人でやってろよ」みたいな投稿がこれからもあります。そんな時は上記同様に「こいつ弱い人間やな」と笑って無視してください。

とにかく、僕は感謝したい。それだけなのだ。

よしなに。


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