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マドンナ 第8話《休憩タイム》【短編小説】

 第二章と第三章とのエリアの間に休憩室が設けられてあり、ユースケはくたびれてベンチソファに腰を下ろした。この空間だけはガラス張りの壁から外の光が入り、展示室の演出された空間から現実世界に戻る。
 スマホを取り出し、モナにLINEを送った。
『休憩室で休憩してまーす』
 これでモナは来るだろうかと、スマホを握ったまま外の景色をボーッと見つめた。
 二人で来て個々に観てまわるなどとは思いもしなかった。なんとなくこの場はモナがリードしながら絵の説明をしてくれたり、こんな見方をすると面白いとか、そんな雰囲気を想像していた。
 もし野球観戦に誘っていたとして、モナがルールを知らなければ手取り足取り教えるし、勝敗を分けるような見どころも解説するだろう。そうやって楽しむものだと思っていた。
 四十を目前にしたおじさんが、二十歳の娘に美術鑑賞の手ほどきを受けるのはおかしいとも思う。それにしても別行動というのはあんまりではないか。これでは完全に放置である。
 〈キリスト教の慈愛〉をテーマにした今のエリアはもう完全にお手上げである。「ゆるし」「犠牲」「受難」縁のない言葉ばかりがやたらと並ぶ説明文に頭が痛くなった。分かったことと言えばマグダラのマリアの乳は推定Bカップということぐらいだ。もう乳にしか目がいかない。
 ユースケはもう一度モナとのLINE画面を開くが既読になっていない。
 モナのペースを尊重した結果、邪魔にはなっていない。ただ猛烈にさみしい。
 カップルで来ている人たちは、みんな二人で観ていた。それが、本来あるべき姿であろう。デートに来て、他人のカップルを見て羨ましくなるなんてのは初めての経験だ。
 だが――考えたら裸の絵をカップルで観て、どんな会話が交わされるのだろうか。「いい絵だな」なんてことが言えるのか。「これは一見して官能的にも見えるが、なによりも裸体を美しく見せる曲線の技巧とまばゆいばかりの白い肌の色彩感覚が、女性の肉体への賛美を表している」と、さっきなにかの説明書きにあったようなことを真面目くさって言うのか。なんだかムッツリスケベのような気がしてならない。
 それならば、逆に「いいおっぱいしてるな。こういうおっぱいが好き」と、言うのか。目の前の彼女に張り倒されそうである。
 裸の芸術の鑑賞法の答えが見つからず、ユースケはうなった。
 モナはあえて別行動をしたのだろうかと、ふと思った。はじめに一巡りして、裸の絵の多さに二人で観るのは気まずいと思って。だから、有無も言わさずさっさと行ってしまった。そうだとしたら、この美術鑑賞は最後まで個々で行動するということになる。
 もう一度スマホを見たが相変わらず既読はつかない。
 もうくたびれたので出てしまおうかと、ユースケは思った。まだ一時間も経っていないが、なんだかこの状況に疲れてしまった。先に出て『ラウンジのカフェで待ってる』とLINEを入れておこうか。でも、それだとモナを急かしてしまうような気もする。
 そもそも、このまま出て「どうでした?」と訊かれたら何て答えるつもりなのだ。
 ユースケは、ハッと目が覚めたように自問した。
 このままでは、いい乳をいくつか発見したとしか言えない。今日のデートは終わるだろう。当然、次のデートもない。
 もう少し頑張らないとダメだ。シロートなりに芸術鑑賞を頑張ってみましたという姿が、モナの心を動かすのではないのか。なによりも、今日は告白をするのだ。
 あぶない。危うくくじけるところだった。
 ユースケは気合を入れ直そうと両手で膝をバシッと叩いて立ち上がり、勢い勇んで休憩室を出ようとした。そこでモナがヒョッコリと入ってきてぶつかりそうになった。
「あれ? もう行きます?」
「あれ? あ、LINE見た?」
「……はい」
 どうも確認のタイミングがずれていたようである。
「あ……いや、もうちょっと休んでこうかな」
 モナが怪訝な表情でジッとこっちを見ているのを笑ってごまかし、座っていた所へいざなった。腰かけて一息ついたが、どう会話を切り出せばいいものかと糸口を探すことになってしまった。
 どれそれの絵が良かったと言えればいいのだが、女の裸しか浮かんでこない。女の裸ではない良い絵を探しに行きかけたところにモナが来てしまった。この状況でLINEをするべきでなかったとユースケは少し悔いた。
「……けっこう、若い人がいるもんだね?」
「そうですね」
 とりとめもない話題は1ターンであっさり終わる。
「カップルも、けっこういるもんだね」
「……そうですね」
 会話が続かない。どうしたものかと頭の中をフル回転させながら、手元の作品リストに目を落とす。
「なにか気に入ったのありました?」
 ――マズイ。
 準備が整う前にその質問が来てしまった。そうだなぁとたっぷり思案している風を装いながらリストを追っていく。しかし、タイトルと絵が全く結びつかない。
「『ローマの慈愛』はよかったかな」
 とりあえずタイトルの雰囲気がいいものを選んだ。完全に打ちのめされた〈キリスト教の慈愛〉のエリアに展示されているものらしいが、敬虔けいけんそうな感じがする。どんな絵か分からないが、無難なところだろうと考えた。
「ああ――確かに、人目を引きはしますよね」
 モナの反応は肯定とも否定とも取れない微妙なもので、慎重に言葉を選んでいるように感じた。その真意はよく分からないが、少なくともモナの中では絵が浮かんでいるらしい。
「モナちゃんも観た?」
「はい」
「これぞ『愛』って感じがしたんだよね」
「ふーん、――そうですか」
 なんとも曖昧あいまいなリアクションである。チョイスが微妙だったか。どんな絵だったのか少し不安になってきた。
「モナちゃん的にはどう思う?」
 質問してさりげなくどんな絵だったか思い出してみることにする。
「どう? うーん、作品の意図は分かるし、そういう愛もあるんだとは思うんですけど――ちょっとわたしにはできないですね」
 ――できない?
 ますます分からなくなってきた。できないとはどういう意味なのだろう。描けないということなのか。なんにせよ、これ以上イメージできていない絵のことで話をするとボロが出そうな気がした。
「モナちゃんは? なんかいいヤツあった?」
「わたしは……」
 モナも手にしたリストに目を通すと〈部屋履き〉と答えた。
「〈部屋履き〉ねぇ……」
 同調するように口にはしてみるものの、絵が分からない。リストをもう一度見て探しても作品が多すぎてすぐに見つけ出せなかった。
「観ました?」
「えーと……〈部屋履き〉ってどこにある?」
 観念し正直に訊ねると、まだ観てないエリアのものだった。
「これはまだだな。結局順番に観て周ることにしたから。これから」
「そうですか」
 ユースケは「一緒に観ない?」と聞こうかどうか迷った。
 モナと一緒にと強く思う一方で、モナが自分のペースで鑑賞できなくなることに不満を感じたりしないかという懸念もあった。もしそんなことになれば、この後の展開を難しくしてしまうことにもなる。
 それでもやはり、二人で観て、もう少しデートっぽいことをしたいと気持ちが勝った。
「モナちゃんは観たいヤツって大体観た?」
「えぇ、粗方は」
「オレがこれから観る後半部分を一緒に観たりなんかしてみたいような……」
 お伺いを立てるように弱腰にリクエストをしてみると、意外にもあっさりいいですよと答えてくれた。
「ホントに? 不満になったりしない?」
「え、なんでですか?」
「いや、自分のペースで観てまわれなくなったりすることに……」
「ああ――でも、大丈夫ですよ」
「そう? それならよかった。やっぱりモナちゃんは通だよね。オレなんか人の流れに合わせないと不安で」
「通というより最初から順番に観ていくと、後半疲れて集中力が落ちるんですよね、わたし。だから、先に気になるものをピックアップして最初にじっくり観ちゃおうって」
「そうだったんだ。確かに、順番にひとつひとつ観ていくと疲れるね」
「そうなんですよ。全部しっかり鑑賞しようとしても結構多いから。説明を読んだり、ガイド聴いたりしてその時は理解しても、あとになってなんだっけってなりますからね」
 心なしか、モナがウキウキしているように見えた。やはり相手の得意分野の話をさせるのは効果的なのかもしれない。ユースケは意外に上手くやれていると手応えを感じた。
 モナはあと一つ二つ前半部分で観ておきたいのがあると言い、それも一緒に付いて行って、それから後半を観ようということになった。前半に戻るなら、さっき自分のお気に入りと言ったものがどんな作品なのか、ついでに確認しておこうと思った。
 
 〈ローマの慈愛〉の前でユースケは心臓の鼓動が大きくなるのを感じた。
 大きなキャンバスに白髪の年老いた男が若い娘の乳房に吸い付いている様子が描かれている。
 一人で観て周っているときに強烈なインパクトを受けて、ここだけは思わずきっちりと説明文を読んでいた。
『餓死刑を言い渡された父親のキモンの元へ面会に行った娘のペロが、看守の目を盗んで自らの母乳を与え栄養を摂らせている。子が親に乳を与えるという究極の逆転によって、キリスト教の教義の犠牲的な愛、相手のために自分を顧みないことを示している。親へ寄せる愛情が表れたこの作品は十七世紀のローマで大きな成功を収めた』
 説明を読めばこれは一種の愛情表現であると納得はしたものの、それでもかなり刺激の強い性的な絵画である。
 説明は読んでもタイトルはロクに見なかった。適当に選んだ作品が、まさかコレだとは思いもよらなかった。
 ユースケは頭が真っ白になり、隣にいるモナをこっそりと横目で見る。モナは顔色ひとつ変えずに絵をジッと観ている。
 なにを考えているのか分からない。けれども、この絵をお気に入りとして真っ先に挙げたのはマズい気がする。ユースケがこの絵の父親、モナが娘と重なることも、なくはない年齢差である。それでモナに気持ち悪いと思われたら、それはとんだ誤解だ。
 ユースケはまたもや、どうしようもなく弁解したい気持ちに駆られた。モナの肩をちょんちょんと叩き、ささやき声で耳打ちした。
「コレじゃない」
「――え?」
「さっき言ったお気に入り、コレじゃなかったわ。隣だった」
 隣に展示されている絵を指さし、モナもそれに目を向ける。
「タイトルが一つズレてた。間違い」
「ああ」
 モナの表情に変化はなかった。まるで気にも留めていないようにも見える。それならそれでありがたいが、なんだかヒヤヒヤする。
 ユースケは改めて、美術鑑賞デートのハードルの高さを思い知らされ、一刻も早くこの時間が過ぎて欲しいと思った。

〈続〉

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