発達障がい者の親が持つ「植松マインド」の問題~障がい者差別を根本から無くすには~

発達障がいへの排除的発言ばかり報道される不自然さ

発達障がい者の親を特集した番組を良く目にする。そういった番組で発達障がいを持つ親が口にするのは子供への不快感だ。ある親は「イライラする」といい、ある親は「辛かった」という。しかし、冷静になって欲しい。何故、定型の不快感ばかりが報道され、発達障がい側の不快感が報道されないのか。例えば子供自身も定型に対して「イライラ」や「辛かった」ことはなかったか何故聞かないのか。このような報道姿勢には心底疑問を持つ。飽くまで発達障がいは「不快な側」と見なされ、定型は「不快感を表明する側」という図式が見えてならない。相模原の事件の犯人が障がい者に対して残酷な行為を行った理由に「家族が辛そうだった」というものがある。本来、発達障がい者の第一の味方であるべき親が不快感を発言をしたり、そのような発言を報道する人間は無意識的に相模原の事件を正当化する「植松マインド」を持っているように思えてならない。

発達障がいへの理解を促す番組自体が無理解の人間が作っているのではないかという疑問

私は発達障がいへの理解を促す番組を見た際に強い疑問を覚えた。あるシーンでは当事者が怒るシーンで「ガオー」とまるで動物のような鳴き声を発せさせ、ある当事者はカエルとして表現されていた。「私たちは動物扱いなのか…」という強い絶望を覚えた。例えば日本人への理解を促す番組で日本人が猿のイラストで描かれていたらどんな気持ちになるだろう?それは理解を促す番組といえるのだろうか?

大切なのはどう排除するかではなく、どう和解して共存するか。

分からない存在を排除するのは理性的ではないのではないだろうか。臭い物に蓋をしていては何れ腐敗して異臭を放つように、発達障がいへの排除感情を蓋をして語らないままでいては何れそれは大きな紛争状態に繋がり兼ねない。何より大切なのはどう排除するのかではなく、どう共存するか語り合うことではないだろうか。

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