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ヒカリとカゲ 箱入り令嬢の夢見がちな日常 第三話②

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第三話 お医者さま②


冬子、心配する

「まあ。誠先生のお子さんだったんですか?」

ヒカリはわざと大袈裟な声を上げてみせた。

「お姉ちゃん!」

北白河の腕の中で振り向いた美亜ちゃんは、思いがけない再会に喜びを爆発させる。

ヒカリたちと美亜ちゃんが会うのは今日が二度目で、しかもさっきまで一緒に遊んでいたのだと分かると、クリニックの待合室は温かな笑いに包まれた。

「美亜ちゃんのパパね。私のおじいちゃんの健康診断してくれたのよ。ありがとね」

「こちらこそ、美亜が何度も世話になって」

ヒカリが美亜ちゃんに笑いかけると、北白河はしみじみとした様子で言った。

「小さかったヒカリちゃんに、自分の娘が遊んでもらえる日が来るとは……本当に、素敵なお嬢さんになられましたね」

話を振られた春平は、目尻を下げて何度も頷く。

(私、なんで大人みたいな会話してるんだろう)


ここで自分が狼狽したら、おかしいんだ。

美亜ちゃん、誠先生。
彼らを自然に受け入れているナースたち。

自分がいま崩れたら、温かな雰囲気は壊れてしまうだろう。

でもヒカリは、不思議と苦しくはなかった。

言葉はスラスラと出てくるし、笑顔を見せることも容易だった。

作り笑顔ではなく。

ヒカリ本人がビックリしてしまうくらい、自然に笑うことができるのだった。

振り返れば、思い当たることはたくさんあった。

誠先生が、これまで自分に対して見せてきた態度。

その数々は、大人から年少の者に向けられる態度であった。

妹とか、娘とか。

(なあんだ、そうだったのか)

いや、本当は分かっていたのかも。
見て見ぬフリをしていただけ……。

呆気ない。
でも、思ったより傷は浅いかもしれない。


ただ、ヒカリは酷く疲れていた。



カゲは、もう一度トイレに引き返した。

元から柱の陰に隠れていたし、みんな話に夢中だったから、誰にも気づかれることはなかった──。

くだんのメロドラマは、ついに妻が不倫の証拠を押さえるに至っていた。

そんなことは知る由もない不倫男は、同僚(チャラい)とともに酒を飲みに行く。

『結婚なんて紙切れ一枚提出したかどうかだろ? おまえたちが、もっと強い絆で結ばれてることを俺は知ってる。諦めるなよ。俺もできる限り力になるから──』

同僚(チャラい)は、そう言って彼を励ますのだった。

このドラマは、何故か不倫カップルが応援されている。

『紙切れ一枚、か……』

同僚(チャラい)の言葉を反芻しつつ男が帰宅すると、苦しげに顔を歪ませた妻が待っている。

その後は怒り狂う妻の独壇場であった。

テーブルに並んだ料理を投げ、皿を割る。男を罵る、子供を盾にとって恐喝する、泣き叫ぶなど不安定ぶりを発揮。

最終的には包丁を持ち出した。

『離婚はしない! あなたがあのひとを選ぶなら死んでやるわ!』

包丁を自分の首に当てる妻。

血走った目の下に踊る「つづく」のテロップ……。

彼女の怪演は視聴者を震撼させた。


ーーー

「……なに、このドラマ?」

冬子の指からポロリとスナック菓子が落ちた。

彼女は、ヒカリの部屋に遊びに来ている。

ジュースとおやつで女子会的なことをしていたのだが、BGM代わりにつけていたテレビで例のドラマが始まってしまったのである。

昼下がりに相応しい薄さのドラマ。

だと思うのだが、ヒカリの部屋の大型テレビで観るといろんな意味で圧巻で、つい見入ってしまった。

「ええと、誠先生の話だっけ」

「ん。結婚してるの知らなかったってだけの話」

「そーなんだ」

「うん。先生、指輪してなかったし」

「まあ、しない人はしないからね。誠先生、医療従事者だし」

その後、ヒカリは美亜ちゃんの話をしたりした。

話をいきなり変えたような感じだった。

それに、今日はどうもヒカリと目が合わないような気がする。

また逸らされた。

そのときの微妙な表情を、冬子は見逃さなかった。

「ヒカリちゃん?」

冬子が呼びかけると、ヒカリは慌てて顔を上げた。

「何よ、ショックだったわけー?」

わざと軽い調子で話しかけ、ジュースのおかわりをいでやる。

「そんなんじゃないって! そもそも誠先生はずっと歳上だし」

「カッコいいもんねー、誠先生」

姪っ子の相手をしながら、「あ、これは本気だったな」と確信した。

もしくは現在進行形か──。

冬子だって、まったくショックじゃないと言えば嘘になる。

ただし、彼女にとって北白河は単なる「推し」でしかない。

(私も騒ぎすぎたかな。ヒカリちゃんを煽っちゃったかも)

少々反省する冬子であった。

直後、さっきのドラマの内容を思い出して薄ら寒くなる。

(まさか、ね)

ドラマに影響されて、可愛い姪っ子が不倫に走ったらどうしよう。

まさか、北白河が応じるとは思えないけれど。

「うーん、ヒカリちゃんもお酒が飲めればいろいろ話せるのになー」

冬子が思わず声に出すと、ヒカリはポカンとした顔で首を傾げた。

「……このドラマ、本当に人気あんのか?」

「……途中で投げ出すのは性に合わん。最後まで見届ける」

橋倉、謎の意地っ張り発言である。

ここは彼の部屋だ。

こちらでも例のドラマは視聴されていた。

「ところで泥棒。何故ここで寛いでいる?」

「女どもがうるせぇんだよ。自分の部屋はカビくせぇしな」

カゲに割り当てられた部屋は、古本だらけの書庫なのだ。

利点といえば、トイレへのアクセスの良さくらいである。

「お嬢様方のことをそのように言うでない。ほれ、シッシ」

ドラマの内容に衝撃を受けているのか、橋倉にいつもの覇気はない。

本格的な雷が落ちる前に、カゲは執事の部屋から退散した。
 


「護衛くん」

廊下で声をかけられた。
冬子である。

「今日は踊らないんだね」

「フン」

カゲとて、そういつも尿意と闘っているわけではない。

「何の用だ」

「ヒカリちゃんのこと、よろしく。相当ショック受けてるようだから」

「何で俺に言うんだよ」

「キミがいれば、ヒカリちゃんは大丈夫な気がするんだよね」

冬子は小首を傾げ、考えるように顎に指を当てた。

「パパたちはヒカリちゃんを溺愛してるけど、どっか抜けてる。その点、キミは冷静でしょ」

「フン。どーだかな」

何かあるだろうってことは分かってた。
膀胱が騒いでたからな。

と言いそうになって、カゲは口を噤んだ。

冬子からの「冷静」という評価には実感が湧かない。

荒ぶる膀胱と闘っているときの自分が「冷静」であるとは、とても思えないのだ。

ただ、当主と使用人たちが、ヒカリに変な虫が付かないようにと右往左往する姿は茶番だと思っている。

(じゃあ、あれは何だったんだろうな?)

カゲはふと思い出した。

「若先生なら大丈夫だ」という、橋倉の一言である。

あれはどういう意味だったんだろう。

考えていたらトイレに行きたくなってきた。

一定時間トイレに行っていないためだと思われる。
 
「じゃ、頼んだわよ」

冬子がカゲの肩をポンと叩いて去って行った。

カゲは、そのままトイレに向かう。

何気なく振り向いた冬子は、その姿を見て驚愕した。

(器用ね……内股で走るなんて)


蓮の庭

「今日、姫華さんはお一人になりたいそうよ」

「ご気分がすぐれないみたい」

翌日の、蓮乃宮女学院高等部。

金魚のフンたちの声を小耳に挟んだヒカリは、中庭に移動した。


「その様子だと、アンタも知ってしまったようね」

水面いっぱいに蓮が広がる池を囲むテラス。

ヒカリが声をかけると、立ち尽くしていた冷泉姫華がハッと顔を上げた。

通常より薄いメイクの下には隈が浮き、毛先は僅かにカールしたのみ。いつもの気合いの入った縦ロールとは程遠い。

インディゴブルーのワンピースは気分の現れか。

一限と二限の間の短い休み時間に、テラスへ出てくる生徒は滅多にいない。

今、テラスにいるのは二人だけであった。

「そう。ヒカリも知ってたの」

姫華が口角を歪める。ヒカリもそれに倣った。

驚くべきことに、ライバル関係にある二人が苦笑し合ったのだった。

姫華が訊いた。

「あなたも調査を頼んだの?」

「いえ、私は子供の相手をね」

「は?」

ヒカリが答えると、姫華は訳が分からないといった顔をした。

「クリニックの近くに公園があるじゃない? 暇つぶしに、そこにいた子たちと遊んだの」

「……」

「その中の一人が誠先生の娘さんだった。知ったのはホント偶然よ」
 
語尾は深いため息のようになった。

今思えば、美亜ちゃんはずっと待っていたのだ。

クリニックが見える、こんもり緑を背負った公園で。

忙しいパパが帰ってくるのを──。

あの事実を知った瞬間の胸の痛みが蘇る。

あんぐり口を開けて話を聞いていた姫華が吹き出した。

「おっかしい! あなたのことだから、子供と一緒に猿みたいに駆け回ったんでしょうね」

「笑いごとじゃないわ」

ヒカリがむくれると、姫華はフッと笑いを消した。

「じゃあ、奥さんのことは……知ってる?」

「……ええ。でも遠目に見ただけ。美亜ちゃんを迎えに来てた」

反応が遅れた。

新たなショックに打ちひしがれたからだ。

美亜ちゃんを遠くから呼んでいた女性。

あの時は、「美亜ちゃんのママなんだな」としか思わなかった。

しかし。

当たり前の話だが、「美亜ちゃんの母親」ということは、つまり彼女は「誠先生の奥さん」なのだ。

(誠先生には……)

奥さんがいる。

ヒカリの中で、初めて「妻」という存在が明確になった。

──ズキン。

心臓が大きく揺れる。

メロドラマの中の「妻」は鬼だった。

愛に走った二人の、分かりやすい敵だった。

でも。

──美亜ちゃーん。

あの日、美亜ちゃんを迎えに来た女性は鬼じゃなかった。

作られた役とは全然違う。

生身の人間なのだ。

「私と手を組まない?」

押し殺したような声で、姫華が言った。

「え?」

「一時休戦よ。先生の家庭を壊すまで」

「壊すって! アンタ、何するつもりなの?」

「何でも」

ヒカリは狼狽えた。

たった今、「妻」という存在が明確になったばかりなのだ。

姫華の迷いのない視線を受け止めるだけで精一杯だった。

「欲しいものを手に入れるのに、何を躊躇ためらう必要があって? あなた、そのつもりで私に声をかけたのじゃないの?」

言葉に詰まる。

自分は、どんなつもりでライバルなんかにをかけたのだろう。

「それじゃ。いいお返事を待ってるわ」

姫華がヒカリの脇をすり抜けていく。

二限が始まるのだ。


泥棒、立ち聞きする

(物騒かつ短絡的なお嬢さんだ)

誰もいなくなったテラスに出てきた人物が、ブルリと身体を震わせた。

カゲである。

物陰で会話はすべて聞いていた。

震えたのは、もちろん膀胱が騒ぐからである。

およそ、お嬢様の口から出る言葉とは思えなかった。

ましてや、ここは美しい蓮の庭だ。

水面には、白やピンクの蓮の花が凛と咲き誇っている。

花言葉は主に「純粋」・「清らかな心」・「信頼」といったもので、まさにこの蓮乃宮女学院の理念そのもの。

そんな場所で、まさか人の家庭を壊す計画が語られるとは──。

(うお、やべェ)

カゲはポケットに手を突っ込むと、トイレへ急いだ。

わざわざ職員・護衛用トイレまで移動しなければならないのが悲しい。

(あいつ、どうするつもりなのかな──)

胡桃沢邸の呼び鈴が鳴ったのは、それから三日後の夜であった。

モニターに映った人物を視認したとき、ヒカリは、複雑な思いを抱きながらも胸の高鳴りを抑えることができなかった。

「これはこれは若先生。ささ、奥へどうぞ」

橋倉が彼を迎え入れる。

「いえ、すぐにおいとましますので」

「さようでございますか」

北白河は、玄関にいちばん近い応接室へ通された。

胡桃沢邸の中では待合などに使う簡易的な部屋だ。

「誠先生、こんばんは」

ヒカリが精一杯の笑顔で部屋に顔を出すと、北白河はいつも通りの微笑みで白い封筒を掲げてみせた。

彼は今夜、春平の健康診断の結果を持って訪ねてくれたのだ。

三日しか経っていないのに、長いこと会っていなかった気がする。

あの事実を知って以来、始めて向き合う誠先生。

あれから、美亜ちゃんとも遊んでいない。


「素晴らしい結果です、同年代の平均と比べましても」

北白河が説明すると、春平は豪快に笑った。

「フォッフォ。若先生のお墨付きとあれば安心ですなぁ」

「僕も胡桃沢様を見習って、不摂生をどうにかしなければ」

北白河が頭を掻いて笑いを誘う。

「医者の不養生というやつですかな」

「お医者様は大変なお仕事ですもの。ご自愛ください」

応接室では歓談が続いている。



(おーおー。お嬢様ぶりやがって、気持ち悪りぃ)

飾り棚にピタリと吸い付くようにして、カゲが佇んでいた。

護衛の仕事をしているのではない。

金目のものを物色中、ここへ北白河が通されてしまったのだ。

部屋は広く、ソファから飾り棚までは距離がある。

気配の消し方も心得ているので、見つかる心配はないだろう。

多少の尿意をいなしながら、カゲはそのように計算した。

それにしても、こうして見るヒカリは良家の令嬢そのものである(事実、そうなのだが)。

しかし、彼は何となく、あんな風に振る舞うヒカリを見るのが居心地悪いというか、面白くないのであった。



長居はしないとの予告通り、北白河は早めに歓談を切り上げた。

「先生、本当にお世話になりました」

「ああ。困ったことがあれば、いつでも相談してね」

その優しさに、不安と期待が入り混じる。 

今度、いつ会えるだろう。

会ったとして、その時どんな気持ちになるだろう。

どんな顔で話をしたらいいんだろう。

溢れそうな疑問を抱えながら、ヒカリは北白河の背中を見送った。

今日はまだ早いから、美亜ちゃんと晩ご飯が食べられるかな。

美亜ちゃん、喜ぶだろうな。

そう思うと、ヒカリの胸は刃物で切られたような痛みが走るのだった。

自室で一人になるよりも、最近は祖父や使用人たちと過ごす方が気が紛れる。

実際、人に囲まれている時のヒカリはよく笑った。

心から笑えていると思う。
でも作っている自覚もあるような気がする。

それは、プールの底に落ちた物を拾えないまま身体が浮き上がってしまう感じによく似ていた。

自分と自分が乖離した状態だ。

このことは、春平たちには知られないよう努力した。

彼女はこの種の隠し事をした経験があまりなく、それもまた後ろめたいのだが。

なぜ隠そうとするのか、本人にも分からないのだった。

どうして好きになってしまったんだろう。

どうして出会ったのが「今」なんだろう。

真先生が結婚する前じゃなくて。

(いいえ。そんなことは関係ないんだわ)

久方ぶりに北白河と会ったこの夜、ヒカリはある結論に達した。

相手の「今」がどうであろうと、好きなものは好きなのだ。

関係ない。
好きな理由も、結婚も。

これは運命のようなものなのだ。

(私は誠先生が好き)

くだんのメロドラマに影響を受けているのか定かでないが、ヒカリはとても思い詰めていた──。


箱入り令嬢は絶不調

くだんのメロドラマは、不倫男の相手、即ちヒロイン(?)に言い寄る当て馬が活躍中であった。

眉目秀麗、しかもヒロイン(?)たちが勤める大会社の御曹司だ。

もちろん不倫男より若く、独身である。

“そっちにしとけよ”との視聴者の思いも虚しく、ヒロイン(?)は言うのだった。

『私、自分に嘘はつけない……!』

と──。

諦めずに頑張っていた御曹司も、ヒロイン(?)の真っ直ぐな瞳の前に敗北。

ロールス・ロイスに乗って去って行った。

次回はついに、ヒロイン(?)と不倫男の妻が対峙する。


ーーー

「バカだろ、この女」

「……」

例によって、橋倉の居室である。

カゲが呟き、橋倉は黙って茶を淹れに立つ。

大半の視聴者が、何を見せられているのかと思い始めていた。

しかし、ここまで来たからには最後まで見届ける姿勢の橋倉である。

カゲは、ドラマにツッコミを入れることができればそれでいい。

「うーん。勿体無い話ねぇ」

カゲの隣で、ヒカリが言った。

体育座りで立てた膝に、顎を半分埋めている。

「御曹司の彼も素敵なのにぃー」

ヒカリが二言目を継ぐと、カゲは隣を盗み見た。

(不倫カップル推しじゃなかったのか?)

カゲがドラマにケチをつける度に反論するのがいつもの彼女だ。

声に張りがないのもどうも気にかかった。

首を巡らせれば、橋倉は安心したような顔で茶を淹れている。

──パパたちはヒカリちゃんを溺愛してるけど、どっか抜けてる。

姪のことを心配していた冬子の顔がチラつくと同時に、ブルリと震えが来た。

膀胱が騒いだのだ。

(良からぬ状況だな……)

カゲがトイレを欲するとき、危機は確実に傍にある。

ハズレはない。

ヒカリは、周りに隠しながらもドラマのヒロイン(?)に共感しまくっていたのであった。

好きなものは好きなのだ。
自分に嘘はつけないのだと。



同じ頃、胡桃沢 春平は離れの和室で本を開いていた。

彼は、メロドラマを視聴する趣味はない。

執事やヒカリとカゲが、一部屋に集って例のドラマを観ていることも知らない。

そもそも、この時間帯にあのようなドラマが放送されていることすら知らないのだった。

「むー、意味の分からんことばかり書きおって!」

以前、財界人が集まるパーティーで知り合いの会社経営者が配布していたビジネス本である。

付き合いで読み進めるも、立派なのは装丁だけで内容はすこぶる薄い。

パーティーで配るほど余るわけだ。

彼は本を放り出した。

代わりに、机上の白い封筒を手に取る。

健康診断の結果だ。

先日は、不覚にも大事な孫に心配をかけてしまった。

中身を取り出し、詳細な結果を確認していく。

「どれどれ。若先生によれば良い結果だという話だったが」

この健康診断も、孫が自分を気遣ってくれてのことと思えば自然と笑みが溢れる。

孫の成長を感じるのだった。

「ん? この記号は……」

春平の表情が俄かに曇った。

蓮乃宮女学院高等部。

すれ違いざまに、冷泉姫華がヒカリの肩にぶつかって行った。

「いいのよ、放っておきなさい」

ヒカリは、いきり立つ鈴木さんを押し留めた。

今日の姫華は髪をしっかりカールし、取り巻きを引き連れている。

沈んでいたのは、テラスで話したあの日だけだったようだ。

「しかし。あまりにも失礼が過ぎるのでは」

鈴木さんの言う通りであった。

姫華たちからの嫌がらせは日常茶飯事だが、ここ数日は度を越している。

姫華は怒っているのだ。

誠先生の家庭を壊すために手を組むかどうか。

ヒカリが明確な返事をしないから。

──欲しいものを手に入れるのに、何を躊躇ためらう必要があって?

どうしてそこまでガツガツ行けるのか。

自分はショックを受けて以来、ほとんど何も考えられない。

ヒカリは彼女の切り替えの速さに舌を巻いた。

「おい、大丈夫かよ」

カゲが口を開いた。

「ええ」と曖昧に応じる。

カゲを直視できなかった。

自分の浅ましさを見透かされている気がした。

──あなた、そのつもりで私に声をかけたのじゃないの?

人の家庭を壊す。

姫華なら、それくらいのことは言いそうだった。

向こうに誘わせている時点で、自分は卑怯なのだ。

他にどんなつもりがあったのか。

慰め合いたかった?

寄りかかりたかった?

姫華なんかに?

自信満々な後ろ姿を盗み見る。

彼女のことが大っキライだ。

派手に着飾って、周りを取り巻きで固めているところも。

欲望に忠実で手段を選ばないところも。

でもヒカリは、今の自分に彼女を軽蔑する資格があるとも思えないのだった。


箱入り令嬢、屈する

件《くだん》のメロドラマは佳境を迎え、ついにヒロイン(?)と不倫男の妻が対峙するに至った。

『あなた、自分が何を言っているのか分かってんの!?』

『分かっています』

ヒステリックに叫ぶ妻と、目を逸らさないヒロイン(?)。

不倫男は静観の構え(最大の謎)。

『奥さんがいたって構わない。私、フリ男さんを愛しているんです!』

ここでまさかの感動的ミュージック。

何故かダメージを受ける妻。

彼らは、今日も視聴者たちを大いに混乱させた──。


ーーー

ヒカリとカゲは、今日も橋倉の部屋に集っていた。

ヒカリと橋倉は死んだ魚のような目をテレビに向けているが。

「カカカ、茶番だな」

カゲは、ドラマが茶番になればなるほどテンションが上がるようだ。

もはや、彼らがこのドラマを視聴する意味を誰も説明できない。

強いて言えば、「これをどう収めるつもりだ、え?」という興味だったり怖いもの見たさだったり。

「せっかくここまで来たし」というセコい精神だったり、ある種の挑戦だったり根性だったり。

するのかもしれない。

カゲが言った。

「だーれが作ってんだよ、こんな話」

おまえを生み出した人物である。

「何でこんなもん放送してんだろな」

物語の都合上、と言う他ない。

「あぁ、疲れた」

ヒカリは欠伸をしながら言った。

「部屋で休んでくる。一時間後に起こして」

橋倉の礼に見送られ、逃げるように自室へ向かう。

カウチソファに寝そべってはみるが、それだけだ。

ロココ調のデザインが気に入ってイタリアから取り寄せたものだが、今日は一向に気分が上がらなかった。

あのドラマが素敵な出来ではないということは、ヒカリにも分かり始めている。

ただ、主人公の強さだけが眩しかった。

あの人は、「奥さんがいても構わない」と言った。

そんな強さがあったなら、誠先生は自分を大人の女だと認めてくれるのだろうか。

受け入れてくれるのだろうか。

(そんなの耐えられないよ)

ヒカリは掌で目を覆った。

何分くらいそうしていたか。

床の上でスマホが振動している。知らない番号からだった。

「もしもし……?」

『そちら、胡桃沢ヒカリ様の番号でよろしいでしょうか』

事務的な女性の声だ。

「どなた?」

相手はヒカリには答えず、傍にいるらしき誰かに『繋がりました』と伝えている。

『私よ』

「何だ、姫華か」

犬猿の仲である二人は、もちろん連絡先の交換などしていない。

ただ、冷泉家の力をもってすれば大抵のことは調べがつく。

今さら驚かなかった。

「なに?」

『例の件』

やっぱりか。

誠先生の家庭を壊すために、一時的に手を組む──。

姫華は、その返事を急かしているのだ。

そうでなければ、わざわざヒカリ個人のスマホの番号を調べさせたりしないだろう。

『ハッキリなさい。いつまで迷ってるの』

姫華の声は鋭い。

『もういいわ。あなたを誘ったのが間違いだったようね』

彼女には迷いがなかった。

強さがあった。

ドラマの主人公とは反対方向の。

『あなたのような覚悟のない女に、誠先生は渡さないから!』

「……分かったわよ」

ああ──。

「協力しましょう。一時的に」

自分は、ドラマの主人公にも姫華にもなれない。

誰よりも弱い人間だ。

ヒカリは、スマホを片手に目を閉じた。

◇第三話③へ続く◇


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