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ヒカリとカゲ 箱入り令嬢の夢見がちな日常 第三話①

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第三話 お医者さま①


♡プロローグ♡

『すまない』

華奢な指を、大きな手が包み込んだ。薬指にシルバーの結婚指輪が光っている。

『私はいいの。早く奥さんのところへ行ってあげて』

女が艶やかな黒髪を揺らして微笑む。しかし、その微笑は少し悲しげでもあった。

『もっと早く君に出逢っていれば……ああ、どうして……』

『それは言わない約束。私はじゅうぶん幸せよ』

広い背中がネオンの奥に遠ざかる。
取り残された女の頬を、雨粒が叩いた──。

ーーー

橋倉 いわおは、使用人専用の居室でむせび泣いていた。

お昼のメロドラマにハマっているのである。

使用人の部屋といえども、彼は胡桃沢くるみざわ家の中では最古参の万能執事だ。当主・胡桃沢春平しゅんぺいからの信頼も厚く、立派な部屋を与えられている。

しかし、この部屋で椅子と呼べるものはダイニングチェアが一脚だけ。

背もたれを使わず、「良い姿勢」のお手本のような座り方でドラマを鑑賞していた橋倉の衣服には一つのシワもなかった。

もちろん、丁寧に撫で付けた髪にも乱れはない。

「さてと」

やや鼻声で、橋倉は立ち上がった。

メロドラマを引きずったまま当主に仕えるなどとんでもない。

万能執事に戻る前には、彼はいつも熱く濃い緑茶を淹れることに決めていた。

「なんか、オトナね」

「フボォッ! お嬢様、いつの間に!」

橋倉は自分で淹れた茶を吹き出した。

ラグの上で、胡桃沢家の令嬢・ヒカリが体育座りをしていたからだ。

十七歳の高校二年生。

大きな瞳を興味深げに輝かせている。

「オトナの純愛って感じ」

「不倫の話だろ」

「泥棒までついて来たか。ほれ、シッ!」

カカカッと下品に笑いながらラグに寝そべるのは、ヒカリの護衛・カゲである。

彼の本職(?)は泥棒なのだが、この屋敷に盗みに入ったところを見つかり、ヒカリが気まぐれで雇ってしまったのだ。

だらしない風貌であったが、髪を切り揃えて護衛用の黒服を与え、体裁だけは整えた。

シャープな輪郭に鋭い目が特徴だが、今は眠たげに緩んでいる。

「フリンてなに?」

「おまえ、そんなことも知んねえのか」

「お嬢様におかしなことを吹き込むでない、この泥棒が」

「自分がそんなドラマを観てたんだろうが、オッサンよぉ」

万能執事とて、稀に自らの行いを棚に上げることもある。

橋倉は、カゲの言葉など聞こえぬ振りでヒカリに温かな眼差しを向けた。

「お嬢様。そろそろ通院のお時間でございます」

北白河クリニックに集う人々

北白河きたしらかわクリニックの待合室は、人でごった返していた。主に女性で。

「クリニック」だからといって、街中の普通の病院を思い浮かべてもらっては困る。こちらはセレブ専用のクリニックだ。

待合室はホテルのロビーのようで、巨大なフラワーベースにはピンク色の薔薇がたっぷりと活けられている。

何故こんなに女性が集まっているのか。

理由は、北白河の息子が跡を継いだからである。

北白河 まこと

彼はちょうど良い具合に彫りの深い、優しげかつ爽やかかつ大人な雰囲気のイケメンなのだ。

おまけに親身になって話を聞いてくれるとあって、北白河の噂はまたたく間に広まった。

それで、クリニックに女性が大挙しているというワケである。

「けっ。医者のクセに気取りやがって」

「何よ、カゲ。ひがんでるの?」

護衛として、通院にも付き添っているカゲである。

彼はトイレが心配なのだ。

人混み、ザワザワとした喧騒、薔薇の香り、床の白さ。全てが膀胱を刺激する。

胡桃沢くるみざわ様~。中待合室にお入りくださいませ」

ナースに呼ばれた。

北白河クリニックのナースウェアは、ベージュ基調でサイドに赤いラインが入っている。スタイリッシュなパンツスタイルだが、柔らかな色調は来院者に安心感を与えていた。

(カッコいいなぁ)

同じナースウェアを身につけ、北白河と仕事をする自分の姿を思い浮かべる。毎日、憧れの先生の傍にいられたらどんなに素敵だろう。

ナースになるためにはそれなりの勉強が必要だ。決して楽な道ではないのだが、そこまで想像が及ばない、箱入りなヒカリお嬢様である。

ナースに軽く会釈をして中待合に入ると、聞き慣れた声に迎えられた。

「はぁ? 何でヒカリがここにいるんですの?」

「げっ、姫華ひめか

中待合室のソファに腰掛けているのは、髪を巻いた見た目が派手な少女であった。

冷泉れいぜい姫華。
ヒカリが通う蓮乃宮女学院高等部の同級生であり、積年のライバルでもある。

冷泉家が勝手に胡桃沢くるみざわに突っかかってくるのだ。祖父の代よりもっと前から続く因縁だ。

「姫華。アンタ、どうして私の真似ばかりしてくるのよ」

「失礼ね。真似しているのはそっちじゃなくて?」

つい先日。ヒカリは、蓮乃宮女学院へ教育実習に来ていたピアノ男子のショッキングな秘密を知ってしまった。

時を同じくして、大人気のイケメンピアニストの不貞その他も明るみに出た(第二話参照)。  
 
両者に淡い気持ちを抱いていたヒカリはショックで寝込み、北白河の往診を受けた。

ヒカリは彼に一目惚れ。

ピアノ男子たちのことなどケロッと忘れてしまった。

実は、まったく同じことが冷泉家でも起こっていたのだ。

ピアノ男子の教育実習が終わってしまったため、姫華は裏から手を回して彼の家を調べた。その過程である秘密を知る。

イケメンピアニストの不貞その他も重なって卒倒した姫華は、やはり北白河の往診を受けたのだった。

そして、彼の魅力にすっかりやられてしまったというワケである。

「ここは代々、胡桃沢のかかりつけなの」

「冷泉はそっちより前の代からですわ」

「嘘おっしゃい」

風邪が長引いているから。
ちょっと頭痛がするから──。
何かと理由をつけては、競うように通院する二人。

北白河の大人な魅力にすっかりハマった彼女たちは、仲が良いのか悪いのか。
 
女子高生が病院に入り浸るなど年寄りくさいことこの上ないが、当人たちは必死である。

と、診察室から声が漏れてきた。

「はい。また来ます! ありがとうございましたぁ、まこと先生♡」

前の患者が診察を終えたらしい。診察室の真っ白な引き戸が開いて、ご機嫌な様子の女性が出てきた。

「あ、冬子ふゆこさん」

「あ、ヒカリちゃんも来てたんだぁ」

女性が親しげに笑った。

彼女は胡桃沢冬子という。ヒカリの叔母に当たる人物で、不慮の事故で亡くなった父親の妹だ。

叔母といっても、彼女はまだ二十代半ばの大学院生。

金髪のボブヘアにギャル系の服装で、ヒカリの姉といっても良いくらいである。

黒髪ロングのヒカリとは随分見た目が違うが、勝ち気に光る大きな瞳は間違いなく胡桃沢の系統であった。

現在は、春平が所有する高級マンションで一人暮らしだ(護衛付き)。

「私って頭痛持ちじゃん? 通院がホント面倒だったんだけどぉ、代替わりしたのが超嬉しくてー」

「誠先生、カッコいいもんね」

「ね!」

盛り上がる叔母と姪である。

ひとしきり喋った後、冬子はヒカリの背後に目を遣った。

「それにしても相変わらず面白いねー。ヒカリちゃんの護衛」

切れ長の目は死んだ魚のよう、口角は地面に落ちる勢い。

カゲは、不機嫌を全面に押し出して妙なステップを踏んでいた。

(クソが! 女はうるせぇし床も壁も白すぎる!)

膀胱が暴れる。
解放されたいのだと叫ぶ。

奇妙なステップは、尿意を紛らすための生命線だ。

ステップを止めたとき、彼は終わりを迎える。

とにかくトイレが近すぎるのだ。
この状態では盗みをはたらく気力も湧かない。

クリニックにトイレはある。
行けばいいのに、彼は行かない。

トイレに関して異常ともいえるコンプレックスを持つために、人目のある場所でトイレに入りたくないのだ。

(行ったら多分止まらない! 何度も出入りしたら変だと思われるし……!)

病院の中待合でステップを踏んでいる方がよほど変である。

それはさておき。

「それじゃ。私も外に護衛くん待たせてるから。また屋敷の方にも寄るわ」

冬子はヒカリと手を振り合い、「では失礼」と姫華にも軽く挨拶した。

姫華はスンとして目礼だけ返す。胡桃沢の関係者と打ち解けてたまるかといった様子だ。

冬子は肩をすくめて出ていった。

「お待たせ致しました、冷泉れいぜい様」

扉が細く開き、ナースが呼びにくる。

「はいッ。お願いしまぁす♡」

姫華は、ヒカリが聞いたことのないような声を上げて診察室に吸い込まれていった。

「誠先生、今日も素敵だったな」

暮れかかった空を仰いで、ヒカリは大きく息を吸い込んだ。

屋敷までそう遠くないので、いつも徒歩通院である。

診察時間は短いものだが、北白河の優しさに触れると明日への力が湧いてくる。

しつこかった喉の痛みも引いてきた。

(先生が処方してくれる薬なんだから効いて当たり前だけど、通院する理由がなくなっちゃうわね)

複雑なヒカリお嬢様である。

「なあ」

カゲは、歩きながらポケットに手を突っ込んだ。

「あの医者、やべぇ奴かもしんねえぞ」

「もう。いつまで僻んでるのよ」

「いや、ちょっと胸騒ぎがな」

騒ぐのは、胸ではなく膀胱である。

彼の尿意は危険を知らせるセンサーでもあるのだ。

これほどの尿意が通院の度に、というのはいささか不可解であった。

以前、ヒカリが教育実習のピアノ男子に夢中になった時。

あの時も、カゲは強烈な尿意に襲われた。

その後、ピアノ男子のショッキングな秘密が明らかとなり、ヒカリは寝込んでしまった──。

その方式でいくと、北白河医師にも同等の危険が潜んでいると考えられる。

「のめり込むと痛い目見るぜー」

カゲの事情を知らないヒカリは、この忠告を華麗にスルー。

カゲったら、カッコいい誠先生をねたんでいるんだわと思った。

細い道を挟んで、こんもりと緑に囲まれた公園がある。

子供たちが自転車にまたがって帰っていく。

まだ幼そうな女の子はとても不機嫌そうだ。遊び足りないのかもしれない。

カゲと並んで何気なく見ていると、

「おーい、ヒカリ」

「あ、おじいちゃん!」

ジャージ姿の当主・胡桃沢春平が軽快に駆けてきた。傍には護衛の鈴木さんが控えている。

「ジョギングのついでに迎えにきたぞ」

七十を手前にしてなお『財界の鉄人』と称される活力は、日々の健康づくりの賜物である……のだが。

春平が突然、苦しげに地面に膝をついた。

「旦那様!」

「おじいちゃん!?」


恋のパウンドケーキ

「軽い脱水症状ですね。お疲れも溜まっていたのでしょう」

 
倒れたのがクリニックの近くだったことが幸いした。

奥の小部屋で、春平はベッドに横たわっていた。

夕方診療の途中であったが、北白河が迅速に対応してくれたのだ。

傍で、ナースが点滴を調整している。

「パパ!」

カゲに伴われ、冬子が部屋に飛び込んできた。

カゲはあの後、どさくさに紛れてトイレへ急行。事なきを得たところで、鈴木さんから連絡を受けた冬子がクリニックへ戻ってきたのだ。

「パパ、大丈夫? あまり無理をしないで」

「ホッホ。すまんすまん」

冬子が春平の手をとると、彼は目尻を下げた。

孫のヒカリと同様、末っ子の冬子にも甘い。

「先生、本当にありがとうございました」

冬子は、診察室の方へ戻ろうとしていた北白河に頭を下げた。

ヒカリも慌てて後へ続く。声が出ず、ピョコンと頭を下げただけだった。

「点滴が終わる頃には落ち着かれると思いますので」

北白河は微笑みながら出ていく。

ヒカリは、春平のこんな姿を初めて見た。

おじいちゃんが、おじいちゃんじゃないみたい。

「申し訳ございません」

鈴木さんが深々と頭を下げる。

「私がついていながら……。冬子様にも、お嬢様にも大変なご心配を」

「謝らないで、鈴木さん。むしろパパ一人だったらどうなってたか」

「大袈裟じゃよ、大したことはない」

春平と冬子が取りなす横で、ヒカリは硬直していた。鈴木さんが申し訳なさそうに目を伏せる。

(なーんか、おかしいな)

後方で、カゲは首を傾げた。

ヒカリは、基本的にカゲ以外の使用人に優しい。また性格的にも、こんな時はいち早く口を開くタイプだ。

それが突然、借りてきた猫のように──。

だがヒカリは、性格が変わったわけでも鈴木さんに怒っているわけでもなかった。

祖父が倒れたショックと心配。弱々しさとは無縁と思っていた人への戸惑い。

それらに掻き回されて、何も考えられずにいるのだった。

「ヒカリ。おいで」

空いている方の手で、春平が手招きする。

ヒカリは恐る恐るベッドに近づき、祖父の顔が見えるように膝をついた。

「大丈夫じゃ。大丈夫じゃよ」

「うん……」

ゴツゴツした手がヒカリの頭を撫でると、涙が一雫、シーツに落ちた。

「先生、受け取ってくれるかしら」

「はい。きっと喜ばれますよ」

胡桃沢家の大きなオーブンでパウンドケーキを焼いた。

「お上手です、お嬢様」

ヒカリのお菓子作りに付き合うのは鈴木さんだ。

あれから。
ヒカリは、気に病む鈴木さんに何も声をかけられなかったことを詫びた上で、祖父に付いていてくれたことへの感謝を伝えた。

無論、鈴木さんは何も気にしていないと言ってくれた。

それどころか、「先生にお礼がしたい」というヒカリの相談に快く応じてくれたのだった。

横からにゅっと手が伸びてきた。

ふと気づけば、カットしたパウンドケーキが一つ無くなっている。

「ああっ、キレイにできてたのに!」

「泥棒さん! なんてバチ当たりなことをするんです!」

「うん……味はフツーだな」

「もうっ、カゲ!」

泥棒なだけあって、横取りは得意である。

カゲは、モグモグしながら飄々と去って行った。

ラッピング用の袋にケーキを入れてリボンをかける。思い切って、ハート型のシールも貼った。

「夕方の診療が始まる前に出られては? こちらは片付けておきますので」

「そう? ありがと、鈴木さん。料理長さんも、どうもありがとう」

「行ってらっしゃいませ、お嬢様。お気をつけて」

エントランスの鏡で最終チェックをする。

鼻についた小麦粉を払って、前髪を整えて。

「よし、OK!」

出かける前に離れを覗く。

春平は、点滴を打った後はすっかり元気を取り戻していた。

大事をとって、今日は自宅で過ごしている。
 
春平は座椅子に腰を下ろして新聞を読んでいた。

良かった。
いつもと変わりない。
ヒカリが知っているおじいちゃんだ。

後で、おじいちゃんや他のみんなにも余ったケーキをあげよう。

ヒカリは、そう決めて屋敷の外に出た。

リムジンのボンネットにあぐらをかいて煙草をふかしていたカゲが、大義そうに腰を上げる。
 
ヒカリの外出時には護衛が必要だと、一応は分かっているのである。

「護衛中は禁煙だぞ」

橋倉に声をかけられた。

「フン。それより止めなくていいのか?」

「何の話だ」

「大事な“お嬢様”を、あのキザな医者に近づけていいのか?」

ヒカリが教育実習に熱を上げた時は、当主・使用人が揃ってアワアワしていたが(前章参照)。

「ああ。若先生なら心配ない」

橋倉はそのまま背を向ける。

(どういう意味だ……?)

カゲは首を傾げつつ、ヒカリの後を追った。


「すみませーん」

「まあ、ヒカリちゃん」

すっかり顔馴染みになった受付の女性がにこやかに迎えてくれた。

「誠先生に昨日のお礼をしたくて。お忙しいようならこれ、渡していただけたら」

「あら、大丈夫よ。診察始まるまで、まだ時間あるし」

女性は気安く立ち上がる。

間もなく戻ってくると、「どうぞ、入って」とヒカリにウインクを寄越した。

こんなにあっさりOKが出ると緊張してしまう。

勢い込んで来たはいいけれど……。

ヒカリは、北白河に伝える言葉を頭の中で反芻した。

「失礼します」と声をかけると、ドア越しに「どうぞー」と返ってくる。

「やあ、ヒカリちゃん」

恐る恐る引き戸を開けると、北白河が笑顔で迎えてくれた。

「あ、あのっ。昨日は、祖父を助けていただいてありがとございます!」

「いやいや。当然のことをしたまでだよ。あれから、おじいちゃんの具合はどう?」

「はい。すっかり元気になって」

「それは良かった。あ、どうぞ掛けて」

北白河が患者用の椅子をすすめてくれる。

「失礼します……。あの、これ。昨日のお礼ですっ」

ヒカリは包みを差し出した。クリニックの外まで聞こえてるんじゃないかと思うくらい、心臓がバクバクしていた。

「ありがとう! おっ、パウンドケーキ?」

北白河は、分厚い本を押しやって何とかデスクに余白を作ると、早速ラッピングを解き始めた。

「診察が続くと、おやつを食べたくなるんだよねー」

頭を掻きながら笑う北白河には屈託がない。

(誠先生、子どもみたい)

ヒカリの口からも笑みが零れた。


いなくならないで

(ぐぬぬ)

一方のカゲである。
彼は、やはり尿意と闘っていた。

クリニックに来る度に。
どうもおかしい。

この医者、ゼッタイ秘密があるぞと、カゲは思った。

「ああ、田中くん。紅茶を頼むよ。三人分ね」

北白河がナースに声をかける。

「ごめんなさい。忙しいのに」

「いいんだよ。ヒカリちゃんも一緒に食べよう。護衛さんもどうぞ」

「ひぅ……ど、どうも」

カゲは、ぎこちなくヒカリの隣に腰を下ろしたが気が気でない。

ただでさえ尿意と闘っているというのに、よりによって紅茶だ。

利尿作用……!

「あら、手作りのお菓子ですか? いいなぁ、先生もスミに置けませんねー」

田中と呼ばれたナースがトレイに紙コップを載せてきた。

利便性を考慮しての紙コップだが、そこはセレブ向けのクリニック。厚手でシックな模様が描かれた高価なもので、もちろん紅茶も高級品だ。

「良かったら皆さんでどうぞ」

「やったー、いただきます! んー、美味しい!」

「ありがとうございます。お恥ずかしいわ……このお紅茶、とてもいい香りですね」

ヒカリたちが談笑する横で、カゲは一気に紅茶を飲み干した。

「お、俺は、外で、待って、ますんで」

カゲは、診察室を飛び出すとトイレへ駆け込んだ。

診療が始まる前で、人がいなくて丁度いい。

事なきを得たものの、手を洗っている最中にまたブルリと震えが来た。トイレへ逆戻りだ。

(紅茶のせい? 恐るべし、北白河クリニック──!)

紅茶くらい手をつけなくても問題なかろうに、出されたものを律儀に平らげるからこうなる。


(誠先生、普段はこんなに気さくなのね)

カゲと対照的に、ヒカリの胸の中はポカポカと暖かかった。

また会えた。
仕事中とは違う、オフの先生だ。
自分を迎え入れてくれた。
手作りのお菓子を食べてくれた。

それだけのことが、たまらなく嬉しいのだった。



「ったく。礼なんか必要だったのかよ」

クリニックを辞すと、カゲは恨みがましく言った。

紅茶の作用も手伝って、尿意がえらいことになってしまったからだ。

時刻は十七時前。間もなく夕方の診療が始まるところである。

「予約外でお世話になったんだから当然でしょ」

「これからどんどん弱っていくんだ。いちいち礼なんかしてたらキリがねえだろが」

ヒカリがピタリと足を止めた。
クリニックの駐車場である。

「なに言ってるの、カゲ」

「あ?」

「おじいちゃんは財界の鉄人だよ」

「今はな。けど歳は取るだろ。順番でいったら先に逝くのはジジイだ」

「どうしてそんなこと言うの? おじいちゃんは、死なないよ」

ヒカリの口調がガラリと変わった。

カゲが振り向くと、彼女は表情を失くしてどこか遠くを見ていた。

「おい、どうしたんだよ?」

「パパとママが事故で死んで、おばあちゃんもすぐ病気で死んじゃって……でも、おじいちゃん言ったもん。これ以上、誰もいなくならないって」

「おまえ……」

「言ったもん! おじいちゃんも、橋倉も。絶対にいなくならないって、言ったもんっ!」

ヒカリが悲鳴のような声を上げると、カゲは苦い顔でポケットに手を突っ込んだ。

「……そうかよ。悪かったな。けど」

言葉を継ごうとしたとき、物音がした。
北白河であった。

北白河が、クリニックのガラス扉の前に立っていた。

「あ……ごめんなさい。こんなところで騒いで……」

見られた。

頬がカッと熱くなる。
ヒカリは慌てて涙を拭った。

「どうした?」

カゲが北白河へ問う。

「うん。健康診断をおすすめしようと思ってね。おじいちゃんがいいと言えばだけど」

「健康診断?」

北白河は頷いて歩を進めた。

「おじいちゃんは毎年人間ドッグを受けているけど、今年はまだ先だね。でも、昨日のようなことがあってヒカリちゃんが心配するのもよく分かる。うちの健康診断でも、おじいちゃんの体に不調がないかチェックすることはできるから……ねえ、ヒカリちゃん」

北白河は中腰になり、言い聞かせるようにヒカリの顔を覗き込む。

「人は歳をとる。それは避けることができない。でもね、その前にやれることはたくさんあるんだよ」

「誠先生……」

ヒカリは、目を潤ませて北白河を見つめ返した。

「ありがとう! 帰ったら、おじいちゃんに訊いてみます」

「よし!」

大きな手でヒカリの頭を撫でると、北白河はクリニックに戻って行った。

夕方の診療が始まるのだ。

春平の健康診断には付き添うつもりだった。

また、先生に会えるから。

今さっき、撫でられた頭にそっと手を添える。

カッコいい誠先生。

冬子と一緒になって、きゃあきゃあ言えればそれで楽しかった。

姫華に抜け駆けされなければ、それで良かった。

でも。
もう誤魔化せないだろうと、ヒカリは自覚した。

誠先生のことが大好き。

朱と金に染まった空に向かって。

止まらない思いは、高く高く昇ってゆくのだった。


美亜ちゃん

ヒカリとカゲは、無言で歩いていた。

クリニックの前で言い合ってしまったことが尾を引いているのだ。

ヒカリは祖父への心配が完全に消えた訳ではないし、新入りの護衛(しかも泥棒)に思いがけず胸の内をさらけ出してしまった気まずさもあり。

カゲはカゲで、能天気に見える令嬢があんな悲壮な思いを抱いていたことなど露知らず、けっこう無神経なこと言っちまったなーという気まずさがある。

果たして。
この微妙な空気を打ち破ったのは、一人の幼い少女であった。

「おい、チビ。何してんだ?」

クリニック近くの、こんもりと緑に囲まれた公園。

細い道を挟んだところにある。

入り口の石段に、小学校低学年くらいの、おかっぱの女の子が腰掛けていた。

カゲが声をかけると、女の子はブーッと不機嫌な顔を見せる。
 
「あら。あなた、昨日もここで遊んでたわね?」

ヒカリは昨日のことを思い出した。

みんなが自転車に乗って帰っていく中、この子だけ遊び足らないような様子で佇んでいた──。

「そろそろ帰らないと、パパやママが心配するんじゃない?」

ヒカリたちは夕方診療が始まってからクリニックを出たので、もうとっくに十七時を過ぎている。

小さな子が一人で外にいる時間ではない。

「……つまんない」

小さな呟きが地面に落ちる。
ヒカリとカゲは、顔を見合わせた。

「つまんないつまんない! つまんないよぉーっ!」

女の子は、両脚をバタつかせて叫んだ。

「落ち着けって」

「一体どうしたの?」

二人が口々に声をかけると、女の子はポツリポツリと話し出した。

「パパ、ずーっと遅くにしか帰らないもん」

「そうなの」

「お約束、何回も破ったんだよ。美亜みあにはお約束守りましょうって言うクセに」

美亜ちゃんはヒートアップしていく。

「昨日だって、早く帰って遊ぶって言ったのに!」

「そっか。美亜ちゃんのパパ、お仕事が忙しいのかな?」

「ママもそうやって言う。パパは忙しいからしょーがないって。パパの味方するの」

どう答えたものか、ヒカリは困った。

「……キライ。パパもママも、キライ!」

言ってしまってから言葉の重さに気づいたか。

美亜ちゃんの顔が苦しげに歪んだ。

「そうかな。美亜ちゃん、パパと一緒にいたいから怒ってるんでしょ? それって、大好きじゃん」

ヒカリに覗き込まれると、美亜ちゃんは必死で首を縦に振る。

拍子に大きな涙の粒が零れ落ちた。

「お姉さんはね。パパとママ、いないんだ」

美亜ちゃんがえっと目を見開く。

「お星様になっちゃった。だから、最後のお約束はそのまま」

「……」

「でもね。お姉さん、今でもパパとママのこと大好きだよ」

ずーっとね。
そう言って天空の、朱と藍の境目に光る星を探す。


「ぅぎ!」


感動的な夕暮れに奇声が放たれた。

「ちょっと、カゲ! 何で今ふざけるのよ!?」

「ハぅぉっ……ふ、ふざけてねえ!」

カゲは綱渡りをするような格好で水平を保つ。

(何故ここで尿意が!)

ふざけているようにしか見えないが、本人は大真面目である。

「アハハッ」

美亜ちゃんが笑った。

出会ってから初めての、子供らしい笑顔だった。

喜ばしいことだが、何故ここで尿意が襲ったか謎が残る。

尿意イコール危機だからだ。

「美亜ちゃーん」

遠くから誰か呼んでいる。

「ママだ」

美亜ちゃんの表情かおが、安心したようにふにゃっとなる。

ママに走り寄っていく美亜ちゃんに、ヒカリは幼い日の自分の姿を重ねていた。


絶対的事実

胡桃沢邸。
万能執事・橋倉巌の居室である。

くだんのメロドラマは、不倫男の妻が違和感を覚え始めているところであった。

一度は上手く誤魔化せたと思われたが、意外なところからボロ出て──。

という展開で、視聴者をハラハラさせている。

橋倉も心配顔でテレビを消すと、いつものように茶を淹れるべく立ち上がった。

「うっわぁ。奥さん鋭いねー」

「ゴフッ! またですか、お嬢様!」

ヒカリとカゲは、ごくたまに橋倉の部屋でドラマを視聴するのである。

平日の昼下がり、20分ほどの放送枠でダラダラと続いている。何度か見逃したところで、話の筋が分からなくなるという心配はない。

「バレるに決まってんだろうが」

カゲは偉そうにラグに寝そべった。

「“しばらく会わない”とか言った直後に会いに行ってやがる。意思薄弱か? 欲の塊か?」

「だって、彼女は独り身で病気なのよ? 行っちゃうでしょ」

「風邪だろ」

昼下がりのドラマは、こんな下世話な感想を言い合えるくらいが丁度いい。

「泥棒が! 当たり前のように寛ぐな!」

橋倉が雷を落とすも、カゲは薄く笑いながら耳をほじっている。

使用人たちを束ねる役割も担う橋倉にとっては頭が痛むところだ。

しかし、楽しそうな令嬢を目の前にすると、「こういうのもアリなのか」と揺らいだりもする。

「さあさ。そろそろ旦那様がお出かけになる時間です。お嬢様も参られるのでしょう?」

今日は、春平が健康診断を受ける日である。

ヒカリの提案を快く受けた形だ。

自分の身体を気遣ってくれてのことだと分かると、春平は目を細めて喜んだ。

今日の午後は休診で、健康診断だけが行われる。

ヒカリたちがクリニックに着くと、同じく健康診断を受ける人たちがまばらにソファで待機していた。

「どうも、胡桃沢様。ヒカリちゃんも来てくれたんだね」

北白河が待合室の方に出てきた。

「やあ、若先生。今日はよろしく頼みますぞ」

「こ、こんにちは」

「この前は、ご馳走さま」

彼はヒカリに耳打ちすると、笑顔で診察室に戻っていく。

全身が痺れたようになった。
囁かれた左の耳に熱が集中しているのが分かる。

健康診断が始まれば、北白河は問診などで出てこない。

それでもよかった。
ひと目会うだけのために、ここへ来たのだから。

(はうぅ)

一方のカゲである。

尿意を回避したくて、今日は外で待機している。

しかし、そんな小さな抵抗は何の意味もなさなかった。

尿意は、容赦なく訪れたのである。

(くっそ、なんて威力だ! どんな危険が潜んでやがる……)

正面のガラス扉が開いた。

「ねえ、カゲ。ヒマぁ」

春平は検査中だし、北白河はいない。

思った以上に暇を持て余すヒカリお嬢様である。

「帰るか?」

「ううん、おじいちゃん待っとく」

「まあ、どっかで暇つぶすか」

カゲとしては、尿意を呼ぶ危険地帯から離れられれば問題ない。

クリニック前の自販機でサイダーを買い、二人は歩き出した。

「あ! この前のお姉ちゃんたち!」

道を挟んだ公園から元気な声がかかった。

こんもりした緑を背負った公園だ。

「美亜ちゃん! また会ったわね!」

ヒカリが手を振り返す。

「ぎぁっ……!」

カゲがうめいた。

細い道を挟んだ、あの公園。

そこへ行ったら、俺の膀胱は確実にヤバい。いや、既にヤバい。

原因は美亜ちゃんか?

瞼の裏で、危険信号が高速で点滅する。

「お姉ちゃんたちも一緒にあそぼ!」

「うん! 今行く!」

嗚呼。
さらなる危険地帯へ。

公園には、美亜ちゃんの他にもたくさん子どもがいた。

ヒカリは子どもと遊ぶのが嫌いではない。

最高の暇つぶしだ。

「ひゅぐっ!」

カゲが素っ頓狂な声を上げて硬直すると、子どもたちはゲラゲラ笑った。

カゲの事情知らないヒカリは、

(ちゃんと子どもを喜ばせてる……意外と面倒見が良いのね。言動が気持ち悪いけど)

と思っている。
誰かが言った。

「ドロケイやろうぜ!」

お嬢様なヒカリはドロケイが何なのか分からなかったが、美亜ちゃんに教えてもらった。

「よっしゃ、おまえら。俺様に追いつけるものなら追いついてみやがれ!」

尿意を紛らすため、カゲは走った。
まさにコソ泥の走りである。

これまで、トイレを探して彷徨さまようことで警察から逃げ延びてきたのだ。

誰にも追いつけるはずがなかった。

「じゃあ、そろそろ時間だから。また遊びましょうね」

三十分後、ヒカリとカゲは公園を後にした。

ようやく危険な公園から離れられる。
しかし、これから向かう場所も安全ではない。
カゲは悲壮な思いを胸に、ヒカリに続いた。


クリニックに入る直前、ヒカリは左の耳にそっと触れる。

──この前は、ご馳走さま。

さっきの感触が、ずっと残っていた。

耳をくすぐった空気の動きも、イントネーションも。


一方のカゲは、わざわざ壁と天井を伝ってトイレに向かう。

戻ってきて早々にトイレに直行すると、「近い人」と思われて恥ずかしいからだ。

「ふー……ぉ、ぉう」

今日も何とか無事だった──。


バレないようにトイレから出る。

ずっと、ここにいましたけど? みたいな顔で太い柱の陰に身を潜める。

そこでまた震えがきた。

(あぅ……マジでどーなってんだ、この病院は!)

その時。
自動の内扉が開いて、トコトコと小さな影が入ってきた。

「え? 美亜ちゃん?」

ヒカリが目を見開く。
カゲも驚いたが、柱の陰から様子を窺う。

しかし。

「あら、美亜ちゃん。久しぶりね」

「待ちきれずにパパを迎えにきたの?」

もっと意外だったのは、受付の女性やナースたちが、美亜ちゃんをごく自然に受け入れていることであった。

「パ……パ?」

ヒカリが小さく呟いた。

「うんっ!」

美亜ちゃんは無邪気にナースたちに答えると、ついと手を上げて一直線に駆け出した。

「パパぁ!」

美亜ちゃんを抱き上げたのは、白衣の腕。

「ごめんごめん。少し遅くなったな」

「ずっ待ってたんだよぉ」

「もうすぐ終わるから」

可愛くてたまらないという様子で美亜ちゃんの頭を撫でるのは、北白河であった。

(そういうことかよ! 道理で……)

カゲは、たまらず柱に手をついて内股になった。

度重なる尿意は、これを伝えるためだったのだ。

既婚者──。

北白河医師は、子持ちの既婚者だったのである。


◇第三話②へ続く◇


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