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敬語は尊厳の社会保障だと思い直した

なぜ人との会話には敬語とタメ口があるんだろう。

中学校に入り部活動を始めると、日本的な上下関係の世界が急に現れ、先輩には敬語で、同級生と下級生にはタメ口で話すことが普通になる。

敬語の始まりと共に、言葉だけではなく、態度や人間関係も変化していく。先輩には可愛がられる後輩が、後輩には頼られる先輩が、それぞれ好まれていたし、敬語とタメ口は、そのような関係性を作っていくうえでの下地になっていた。

特に、話し方が変わるだけではなく、話す人によって、僕、自分、私、俺などと一人称も変わるため、話すたびに人間関係の上下左右が何度も確認されるようで、気持ち悪かった。

私は、いつ誰に敬語を使って、タメ口をきくべきか頭では十分理解していたが、めんどくさくて堅苦しいこの言葉のルールが嫌いだった。

そもそも、1年先に生まれた以外に特段何の違いもない先輩の、どこを尊敬することがあろうかと思っていた。先輩も先輩で、自分で先に生まれようと思って生まれたわけでもなく、なぜ自分は尊敬されてよき存在などと自然に思えるのだろうか。

結果、敬語ルールは守りつつも『あなたの尊敬するべきところを知りたい。それに納得できたら、それからは敬語を使っても良い』、という態度で人と接していた。そういった雰囲気が漏れ出ているからか、先輩とは仲良くなれず、後輩には慕われない。たまに、そういう変わり種を面白がる先輩が、楽しんで話してくれるようになったくらいだ。同級生からは変わり者扱いをされる。幸い変わり種も面白がって仲間に入れてくれる友人に恵まれて良かった。

高校1年生になる。オーストラリアに短期留学する機会があった。姉妹都市の高校に通学し、英語で授業を受けたり、ホストファミリーと外出したり楽しい時間を過ごした。そこで、ふと、英語で会話するときには、主語は I(アイ)しか使われないことに気づいた。

友達と話す時はI。先輩と話す時もI。先生と話す時もI。校長と話す時もI。めちゃくちゃいいじゃないか。

私は英語のこのシンプルな主語表現がとても気に入り、英語自体を勉強することも留学をきっかけに好きになった。高校でも英語の成績が一番良くなり、大学進学の時は英語が活かせそうな国際関係学を学べる学部に進学した。敬語が嫌いで進路が決まったと言ってもいいくらいだ。

もちろん、英語にも尊敬、謙譲表現はある。しかし、相手との関係に応じて、主語を変えなければならないほどの強制的な言語ではない。それが好きだった。

英語を勉強し始めてからは、日本語で話す時も、誰に対しても「私」を使うようになった。

最近友人とこの話をしていて「敬語は尊敬する人に対して意図的に使うようなものでもいいんじゃないか」と意見しているときに思った。もしこのルールが標準的になれば、尊敬できないと判断した人に対しては誰も敬語を使わないようになる。そうすると、敬語で話しかけられない人は、話し相手から尊敬されていない、というメッセージを同時に明確に伝えられていることになる。

年長者への敬語が常識で、その慣例から私のように離脱している人が少数いるだけれあれば、大きな問題にはならないのだが、「敬語は尊敬する人にのみ使う」が標準になれば、敬語で話しかけられる人と、そうではない人の境界が明確になりすぎる。複数人で話していて、ある人には敬語を、別の人には標準語で話していると、この人は尊敬して自分は尊敬されていないんだ、ということがありありと会話から見えてしまい、円滑な人間関係にも影響がありそうだ。

そもそも、ある程度付き合うことなしにその人の内面を知れないのだから、あったばかりでは敬語を使うことすらできない。それぞれが他人を尊敬する基準がバラバラで、尊敬水準が低い人もいれば、辛口の人もいるわけで、ある人が敬語を使われていないからといって、その人が自分の尊敬に値しないとも言えない。

このように、年長者へのデフォルトでの敬語にもしちめんどくさいという問題はあるものの、尊敬する時のみ敬語にするシステムも、社会の中で浸透していきそうないような気がする。境界を明確にする代わりに境界を定めるコストと境界が生まれることで起きる摩擦が大き過ぎるのだ。

そう考えると、年長者であれば、傑物でも、そうでなくても、誰であっても、敬語で話されるということは、本当に尊敬されているかは置いておいて、人々の尊厳の最低限のラインを下支えしてくれるそこそこ割にあったシステムなのではないかと思うようになった。

30年生きると、誰しもみな「自分は大したことない」ということを受け入れることに慣れてくる。それでも、60歳になって、「あなたは大したことないから敬語で話しませんね」と言われるよりも、実際の敬意の有無はともかく、丁寧に敬語で話しかけられることは、気持ちの良いことではないか。

私も含め、多くの人は、普通に生きているだけで、他人様から尊敬されるような人柄を有していたり、生活を営んでいるわけではない。であれば、敬語を使われても、当たり前のようにそれに値すると思わず、適切に謙遜し、気持ちの良い言葉を返し良好な関係を続けていけば良いのではないか。

敬語使いは面倒でコストもかかるが、敬語は尊厳の社会保障で、私たちは謙遜を税金として収めている。税金で敬語が回っている。

だから、敬語で話しかけられるのを当たり前だと捉え、そのように振る舞わない人に、態度がなってない、とか言い始めると、「そういうシステムで言ってるんじゃないから」となり、敬語使いを成り立たせる基盤が揺らいでしまう。謙遜の気持ちもないのに敬語を求めようとすると、やりすぎなのである。全体として赤字になってしまうのである。

中学生の時、一学年上の威張っていた先輩への私の疑問や敵意の原因は、このやりすぎ感が原因だったのかもしれない。

気に食わないシステムも、自分がこれが良いと思うシステムに変えるととたんに上手くいくわけではない。だから、そこそこいい部分を見つけて付き合って生きていくということで生きれるようになってきた。

しかし、いまもどこかにいるであろう上手く敬語が使えない不器用な仲間たちがいるはずで、彼ら彼女らには、変な人扱いせずに、暖かく接してあげてほしい。ちょっと頑固なだけの普通の人たちだ。私からは、最大限の共感を送りたい。

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