「福岡伸一、西田哲学を読む;生命をめぐる思索の旅」を読んでいます〜ピュシスってな〜に?編〜
はじめに
昨年末から最近まで探究なかまと毎週少しずつ書籍『福岡伸一、西田哲学を読む:生命をめぐる思索の旅』を読み進めていました。
今回は、この本で西田哲学研究者である池田善昭さんの発言を引用することを通じて、氏が西田哲学を紐解く補助線として紹介しているピュシスという概念について紹介します。
ピュシスとは何か?①〜池田さんの発言より〜
以下、書籍『福岡伸一、西田哲学を読む:生命をめぐる思索の旅』の中から単体で読んでも何とか意味が通ずる箇所だけ引用します。
ピュシスというのは哲学の世界ではスタンダードなキーワードなのでしょうか?古代ギリシア、ヘラクレイトスといった関連するキーワードと共にさらっと紹介された上で、ピュシスとロゴスの対比というフレームを通じて西田哲学の本質理解へ迫っていくという流れなのですが、冷静に考えてみると、ピュシスって何だ?単に「自然」と捉えればいいのかという疑問が浮かぶ人もいるように思います。
本当は、池田さんがその著書に影響を受けられた日下部吉信氏の書籍(例えば、『ギリシア哲学30講 人類の原初の思索から(上下)』)をあたり、日下部氏がピュシスについてどのように記述しているかを紹介する方がより近い質感を掴めそうなのですが、書籍の分厚さもありまだ読んでいません(汗)
そこで私は、同じく読書会で紹介してもらい、購入済みの書籍『ソクラテス以前の哲学者』にもピュシスにまつわる記載があったのでそちらを引用することでピュシスとは?に厚みを持たせたいと思います。
ピュシスとは何か?②〜書籍「ソクラテス以前の哲学者」より〜
以下の引用はいずれも書籍「ソクラテス以前の哲学者」のものです。ちなみにソクラテス以前の哲学者とは、具体的にどういう人がいたかというと、タレス、ヘラクレイトス、ピュタゴラス、デモクリトスといった人がいます。(いずれも高校の歴史で世界史を選んだ私が聞いたことあるなぁレベルの方だけ抜粋してみました)
ソクラテス以前の哲学者たちの主たる関心は、全自然、森羅万象に向けられていたことは広く認められている一方で、その対象を端的に示す言葉は何かと問われると、即答するのは困難だそうです。
そんな中、自然全体、自然の総体を意味するものとして、まず浮かぶものとして書かれているのが今回の記事のテーマである「ピュシス」でした。
余談ですが、池田さんが使われている意味でのピュシスという用語は、日本が弥生時代の頃(紀元前10世紀から始まっている説、紀元前3世紀からの説などがあるようですが、ざっくり縄文から弥生への転換期と言っていいのかなと思います)に成立していたようですね。
この書籍では同じく自然全体を表す他の言葉として、「パンタ」「コスモス」という用語も紹介されていました。これらの言葉はピュシスよりも半世紀ほど遅れて使用されているようです。
また、「ピュシス」単体ではないですが、ソクラテス以前の哲学者たちの自然観について以下の3つの点がまとめてありました。
正直、このまとめものすごいですね。とても有難いというか。この箇所自体、今回の記事を書くに当たって読んでいて見つけたばかりなのですが、私が現時点で書籍『福岡伸一、西田哲学を読む:生命をめぐる思索の旅』から学び取っている西田哲学はこの(3)に書いてある自然万有の持つ秩序ある構造について、解像度高く説明したものと言っていいんじゃないかと思えるくらい繋がっているように思えました。(まぁ、次に書いているようにこの時代の哲学者、ヘラクレイトスの断片と言われる資料を西田幾多郎は大いに参照しているそうなので当たり前と言えばそうなんですが)
西田幾多郎とヘラクレイトス
「ソクラテス以前の哲学者」に軽く目を通しただけでも、ヘラクレイトス以外の哲学者もピュシス的なことについて語っていることが分かります。そんな中、西田幾多郎は論文、書籍の中でなぜヘラクレイトスを論文の中でよく引用されていたのかも興味深いです。
書籍「ソクラテス以前の哲学者」でヘラクレイトスについて書かれている中で、西田哲学に通ずると個人的に感じた箇所を引用します。
おわりに
今回は西田哲学を紐解く補助線として紹介しているピュシスという概念について書きました。
ソクラテス以前の哲学者は面白いと聴きながらもいまいち読みたくなるきっかけを作れていなかったのですが、今回記事を書くというアウトプットにかこつけることで目を通すことができて、それだけで個人的な満足度は高いです 笑
肝心のピュシスってな〜に?については、分かる言葉に置き換えようとしていないので、結局なんだったの?となっている方も多いかもしれません。
ですが、引用文にそのまま触れていただくことで、何となくニュアンスは感じ取ることができると思います。
この学ぶ対象を自身がすでに持っている言葉、その質感で受け取ろうとするのではなく、その学ぶ対象とある種一つになろうとすることで(それは英語を聴き続けて、ある時ふっと意味が分かる瞬間が訪れるのに似ているかも)、自身の世界を広げることができる(その意味で身になる)学びにできるのかなぁと思っているため、そういうスタイルにしています。
いや、カッコつけました。今の理解度ではこういう記事にするのが限界です 笑
でも、こういう保留型ともいえる読書をこの本についても行っていることで、自身の言葉で語れるところに近づいていってるなぁと感じますので、ゆくゆくは図解しちゃえるかも!?
ちなみにこういう方法は、西田哲学における純粋体験(観察者として分析するのではなく、そのものと一つとなるというニュアンス)の実践例ではないかと個人的には思っています。
いずれにしても、興味が湧いた方はぜひ気になるキーワードを検索してみたり、思い切って書籍を読み始めてみたりしてみてくださいね。
何かのきっかけになれば嬉しいです。
前回の記事はこちら。
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