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フィリピンの離島で現地のこどもが示した反応にみる霊長類と人間の違いとは?〜『万物の黎明』を読んで〜


はじめに

書籍『万物の黎明』は興味深い内容がたくさん出てくるのですが、今日はその中の1つを紹介します。

霊長類と人間の違いとは?

書籍の中で、進化人類学者・霊長類研究の専門家であるクリストファー・ボームという人物の霊長類と人間の違いについての意見が紹介されています。引用します。

進化人類学者であり、霊長類研究の専門家であるボームは、いっぽうで人間には本能的に支配=服従行動をとる傾向があり、それはまちがいなく類人猿の祖先から受け継いだものだとする。またそのいっぽうで、社会をきわだって人間的なものに仕立てている要因は、そのように行動しないように意識的に決定するわたしたちの能力である、ともいうのである。

第3章から引用

ボームは、アフリカ、南アメリカ、東南アジアに現存する平等主義的狩猟採集バンドの民族史的記録を丹念に検証し、偉ぶりたい人間やいじめ体質の人間を屈服させるために、嘲笑する、顔をつぶ、会費する(根深いソシオパスのばあい、ときには暗殺も)などの多種多様な戦術が採用されていることをあきらかにしたが、これらはどれも人間以外の霊長類にはみられないものである。

第3章から引用

ゴリラは胸をこづいてたがいをばかにし合ったりしないが、人間はしきりにそうする。いじめは本能的なものかもしれないが、いじめに対抗する行為はそうではない。つまり、それはよく考えられた戦略なのだ。そして、そうした戦略を行使することで狩猟採集社会はボームのいう「保険数理的知性」の存在を表現している。要するに、もしそうしなかったらじぶんたちの社会がどうなるか、それをかれらは理解しているのである。

第3章から引用

たとえば、腕のいい猟師が組織的にけなされていなかったら、あるいは象の肉が(実際に獣を殺した人間ではなく)無作為に選ばれた人間によって集団に分配されていなかったら、この社会はどうなるのか、と。かれの結論はこれこそが政治の本質であるというものである。すなわち、じぶんの社会のとりうる方向性を意識的に考え、ほかならぬこの道を選ぶべきであるのはなにゆえかを公然と議論する、このような能力である。この意味で、アリストテレスが人間を「政治的動物」と表現したのはただしかったといえる。というのも、すくなくともわたしたちの知るかぎりで、他の霊長類がけっしておこなわないものは、まさにこの「政治」なのだから。

第3章から引用

個人的な体験から思ったこと

以前、フィリピンの離島に2ヶ月半ほど滞在していた時に現地のこどもたちと遊ぶ機会がありました。

同じ目線になって本気でふざけあっていたら子どもたちもとても楽しそうにどこまでもくっついてきました。

その時に、ふと思いつき、持っていたタオルを振りかざし、「オレについてこい!」と言わんばかりなジェスチャーで歩き始めたら、なんとなく後ろから視線を感じました。振り返ってみると、こどもたちは誰もついてこず、なんともいえない表情で私の方をじっと見ていたのです。

その後、その構えというか、雰囲気を解いて、最初と同じようにふざけたら、また笑顔の子どもたちに戻りましたが、あの時の表情や空気間ははっきりと覚えています。

この体験を、先に引用したボームの主張である「人間は、本能的に支配=服従行動をとる傾向をもつがそれをしないようにそのように行動しないように意識的に決定する能力をもつ(これが霊長類との違い)」という観点から捉えてみると、こどもたちが素直に示した反応がまさに「本能的に支配=服従行動をとるという傾向への抵抗」という人間を人間たらしめている進化の軌跡そのものだったのかもしれない、と思えました。

そして、日本の街中の子どもであっても、たいていは同じ目線で遊んでくれる大人が好きで、大人が何人もいる場において、その気配を感じ取った人のところによくちょっかいをかけにいったりします。

この行為も、そもそも「支配=服従行動」のもとになりそうな場所へは近づかないという意味での抵抗と言えるかもしれません。

この仮説は、なんとなく納得がいくな〜〜。

さいごに

こどもたちがその後も、そのまま人間の進化を体現し続けることができるかというと、そうではなく、都市部においても農村部においても大人になるにつれて、「支配=服従行動」を強いられていくのが現代社会の多くの場所でみられていることのように思えます。

なぜこのようになっているのか?

という問いが生まれるのは自然のことだと思うのですが、このような問い自体が、書籍『万物の黎明』において途中から提示される以下の問いに似ていると思いました。

人間の社会生活の最古の証拠は、進化論の無味乾燥な抽象よりも、はるかに政治的諸形態のカーニヴァル・パレードに似ていた。ますますあきらかになるのが、これだ。

ところが、謎がある。何千年にもわたってヒエラルキーの構築と解体を繰り返してきたというのに、最も賢い類人猿とされる「ホモ・サピエンス」が、なぜ永続的で御しがたい不平等のシステムを根づかせてしまったのか。

第3章から引用

なぜ、わたしたちの初期の祖先を特徴づけていたようにみえる柔軟で変化に富んだ組織法を手放し、女性に対する男性、若者に対する長老からはじまり、そしてついには、祭司カースト、戦士貴族、支配層が現実に統治するといった具合に、特定の個人や集団が他の人びとを永続的に支配することができるようになったのか?

第4章

この問いに対する何らかの回答がこの書籍に書いてあるのか、についてはまだ分かりませんが、引き続き本を読み進めることで『万物の黎明』が提示してくれているレンズ(物事の見方)を得ていきたいと思います。


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