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結局、組織はトップ次第であるという言説と品性(インテグリティ)について

結局のところ、組織はトップ次第である。組織のビジョン実現を妨げているのは、ビジョンを掲げている当の本人、組織のトップであることは少なくない(ように思われる)。つい、先日も同僚と、「なんとなくあの組織のトップは信用できない。組織の求心力を弱めているのは、当の本人ではないか」、そんな話になった。こうした話は、特別、ぼくのような人材・組織開発コンサルまわりだけのものではなく、みな働いていれば、実感のもてる話ではないだろうか。

組織のトップはもっともパワー(権限、影響力)をもっているのだから、組織がトップ次第であるという帰結には疑いない。でも、トップ次第とは何を意味するのだろうか。組織はトップの能力次第で成長するかどうかが決まる、という意味だろうか。はたまた、トップが発する言葉によって組織は変わるという意味か。トップの問題意識の程度によって売れるサービスがつくれる/つくれない、など。トップ次第といっても、そこに含まれる意味は広そうである。

ドラッカーは『経営者の条件』において、経営管理者には品性(インテグリティ)が必要だと言った。

経営者がなさねばならない仕事は学ぶことができる。しかし経営者が学び得ないが、どうしても自ら身につけていなければならない資質が1つある。それは、天才的な才能ではなく、実にその人の品性なのである。

品性よりも頭脳の方が大事だと考える人を管理者に任命してはならない。

道徳的な能力の欠如、もしくは道徳上の信念あるいは規範に対する背反は、経営者として技術上または経済上の能力欠如と同じ重大な失格理由とみなさなければならない。

ぼくは、組織はトップ次第だといったとき、トップの内面的なものに関心を寄せる。それは、品性といってもいいし、人間性といってもいいようなものだと思う。そして、その人間性は、その人の心的なあり方によって規定される。自分のことを肯定的に見れない人が、他者を肯定的に見れるわけがないし、自分に不足を内的に感じている人が、誰かに率先して与えようとはしないだろう。有能感でも、重要感でも、好感でもよい。とにかく、内的に充足していない人に品性や人間性を形成することはできないのではないか。ぼくは、そのように考える。

そして、その不足感は経営に大きな影響を与える。有能感が不足している人は、自分がいかに有能であるかを示すために行動するだろう。重要感が不足している人は、いかに自分のまわりにYESマンを集め、自分がさも重要であるかのような集団を形成してしまうかもしれない。あるいは、組織内の派閥への対抗心、具体的には、自分の派閥を守ること、自分の権力欲を守るために、本来、組織の業績向上や経営に不必要な施策を増やしてしまうということだって起こり得る。トップは究極、私欲にもとづいて行動してはならないのである。

ところで、世の経営管理者は、ドラッカーのいう品性があるかどうかによって登用されているのだろうか。読者の実感も聞いてみたいところだが、なかなか実態は怪しいとぼくは思う。そもそも、品性や人間性を問う評価制度をもっている組織はどれくらいあるのだろうか。または、品性を評価する制度をもっていたとしても、それをどのように客観的に評価するのだろうか。いや、もっと直截的に、読者の上司は品性や人間性あふれる人が多いだろうか、と聞いてもいいかもしれない。

2022年2月24日、ロシアはウクライナへ本格的な軍事侵攻を開始した。プーチンは独自の歴史認識を持ち出して、民間人に死傷者を出す攻撃をおこなった。ロシア国内には特別軍事作戦として、事実をひた隠すような報道をつづけている。プーチンに品性があるかどうかは言うまでもないだろう。

経営においても、政治においても、品性による登用は行われてない。行われていたとしても、それは多くの場合、適切に行われていないのではないか。そして、トップの不足感を埋めるために犠牲になるのは、いつの日も現場なのである。明らかに、権力を握らせてはいけない人を、つまり、品性のない人を登用しない仕組みづくりに失敗している。

この記事では、品性の、人間性の定義もせずに議論を進めてきた。そのために、やや抽象度の高い、所感レベルの記事になってしまった。今後は、さらにトップがもつべき品性を具体的に提示し、議論を深めていきたい。

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