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亜依子さんを探しています、サンパウロの夏

 何十年も連絡が断たれていた知人から、前触れもなく連絡があったとする。

 その時、貴方の脳裏に一番最初に浮かぶ懸念は何であろう。

 何かしらの商品・サービスの販売? 

 連絡をしてきた人の傾倒する政治家への投票依頼?

 何らかの組織への加入案内?

 お金の無心?

 出来ることなら、そのような猜疑心には目を瞑って、「随分久しぶり、元気にしていた?」、と素直に喜んでみたいものである。その用件自体が問題なのではない。

 

  父の仕事の関係でブラジルに住んでいた数か月の間、サンパウロ市の日本人学校に入らせて頂いた。大人になってから理解したことだが、日本人学校は、市の郊外、カンポリンポの丘に位置していた。その界隈の治安はあまり良い地域ではなかったと聞く。

  しかし、私がサンパウロに住んでいた時代には、命の危険を感じるような状況には幸い遭遇はしなかった、と記憶する。スクールバスが停まる大通りから子供の私が一人でアべニダ・アンジェリカ通りのマンションへ歩いて戻っていても問題が無かったからだ。

 厳密に言えば、まったく問題が無かったわけではない。

 マンションに戻る途中、すれ違いがけの少女二人連れに、唐突に手の甲を引っ掻かれ、顔に唾を掛けられたことがある。

 しかしその程度のことであり、命の危険を感じたわけではない。理不尽な扱いというものには、以前駐在していた時から慣れてしまっていたのかもしれないので、大騒ぎもしなかった。どちらにせよ、何故そのような行為を起こす必要があるのか、と少女たちに問い掛ける機転も利かず、疑問に感じる問題意識も無く、質問が出来るほどのポルトガル語の知識も無かった。

 八歳の夏(十二月)のことであった。


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 そのような負の記憶もあるが、ブラジルという国は嫌いではなかった。どちらかというと好きであった。

 日曜マーケットで、親に小さい紙袋入りのピーナッツを買ってもらったところ、通りすがりの若い男性が私の袋からピーナッツをいくつかつまんで、悪気もなくウィンクをして通り過ぎる。そのようなラテン気質は性に合っていた。


 さて、場所はサンパウロ日本人学校に戻る。

 コテージタイプの教室の入り口には、ドア近くの壁に背をもたれて、長くサラサラの髪を繊細に編んでいた少女がいた。黒髪が透き通っているわけはないのであるが、追憶の奥に現れる彼女の髪は何故か透き通っていた。

 彼女の佇んでいたその空間は、誰にも侵害し難いものであった。教室の外から差し込む南米の太陽に照らされ、そこだけが異空間となっていた。

 少女の名前は亜衣子さんと言った。姓も正確に記憶している。


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 南米の太陽が追憶の奥を照らし始めるつど、その追憶の中心にはつねに亜衣子さんが居る。彼女はそれほど騒ぐタイプではなかったが、クラスには自然に溶け込んでいた。

 子供とは時には残酷なものであり、その当時も奇妙な遊びが流行っていた。誰かを(仮想)ばい菌源と決めて、その(仮想の)菌を持ち歩いて誰かに感染させる、という遊びであった。それを回避するためには両手をテントのようにして一種の「バリア」を作れば、ばい菌から身を守れるという遊びであった。

 一種のイジメであったかもしれない。


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 誰かがその「菌」を持って来て私に感染させようとした時、私はバリアも作らず、受け取ったその「菌」を次の人に感染させることもなく、そのまま呆然と突っ立っていた。反イジメの正義感に燃えていたわけではない、単にその仲間に入れる俊敏さと勇気が無かっただけのことであった。

 「貴方は楽しむことを知らない人ね」

 一度、亜依子さんにこう言われたことを記憶している。この評価が、他の子供ではなく、彼女の口から発されたという理由だけで、何故か私は素直に受け入れることが出来た。

 

 それから間もなく私は帰国し、彼女はサンパウロに残った。一度だけ彼女からエアーメイルが届いた。子供にしては美文字であった。

 彼女は現在、どうしているのであろう。

 それなりに幸福なのか?順風満帆な人生を送られているのであろうか?

 あるいは、

 亡くなっていたとしたら?

 三十歳、四十歳台で亡くなる方々も居なくはない。パンデミックも未だに終息はしていない。

 アルジェリアに住んでいた時代、いつも一緒に遊んでいた五歳の少年は、大人になったらプロポーズをしてくれると約束してくれていた。しかし彼は大人になるまで待てずに、中古の大型二輪バイクと一緒に大空に舞い散っていった。

 かりに亜衣子さんもこの地上から消えていたら?

 日本人学校の教室の入り口、亜衣子さんの佇んでいた陽だまりのなかの空間が空白で埋まってしまう。私の追憶の中の教室のことだ。

 せめて、彼女がこの地上のどこかで存在していることだけでも確認をしたい。


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 今の時代、おそらく膨大な時間を掛け、あらゆる情報源を駆使したら、自らの意志で姿を潜めているのでなければ、人探しは可能かもしれない。

 そして、彼女を探し出せたと仮定して、電話を掛けてみるとする。

  何年間も連絡が無かった知り合いから突然連絡があった際に私が経験した用件は、「金の無心」以外の冒頭のパターンのどれかであった。

  かりに、上記のような目的ではなく。純粋なノスタルジーから連絡をしただけであると亜依子さんを納得させることに成功し、友好的な会話が始まるとする。

 「ああ、懐かしいですね。お元気ですか?」

「まあボチボチ」

 もとより彼女には、教室の片隅にいた地味な少女のことなど記憶の片隅にもないであろう。

 それでも社交的に差し支えない世間話をして、

「こんな時勢ですけれど、どうぞご自愛くださいね」

「貴方もね」

 などと表面的な挨拶を交わし、終幕。

 そしておそらく再度、連絡を取ることはないであろう。


 それだけの、無意味とも解釈される表面的な会話のために、何故、わざわざ彼女を探したいと切望するのか。

 おそらく、

 彼女にも、私が追憶の中にて眺めている光景を、一緒に思い出して欲しいからかもしれない。

 雪の降らぬブラジルの夏、クリスマスに、街中のビルの窓から、雪の代用として紙吹雪が舞い散らされていたあの街、その紙吹雪が、私たちの顔にも両手にも、錯乱したかの如くに降りそそいでいた、あの光景だ。


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最後までお付き合い下さり有難うございました。

今回は多少短くなるように努力致しました。

ノート世界においては、サチ/さち/sachiさんと仰る方を探して居ります。かなり以前、心が少し触れ合う機会があり、いつかご紹介させて頂きます、とお約束をさせて頂いたのですが、そのサチさんがどうしても見つけられません。

先日、雰囲気が似たサチ(sachi)さんをお見掛けしたので、もしかしたらと思い、怪しい人間だと警戒されるのを覚悟で打診をさせて頂きました。サチさん違いでしたが、とても素敵なお方でした。パパnoterさんたちを応援するための様々な企画を遂行していらっしゃいます。是非、頑張っていただきたいと思います。


本分で写真させて頂いた写真はサムネイルのサンパウロ市はPixabayの Luciano Teixeira氏から、本文最後はPixabayのktphotography氏でした。

その他の写真はストックホルムの私の近所で見つけた花達でした。

 

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