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『ボーは恐れている』考察※超個人的感想

※主観的観点からMBTIと絡めた
とても素直(正直)で個人的な考察&感想です。

※大幅なネタバレがあります。
映画鑑賞後に読むことをおすすめします。

鑑賞後の方or
見る予定のない方or
ネタバレ見てから映画見る派の方
↓↓↓

率直な感想

「!???…?…!……??」
なな、な、難解すぎるやろ!

イカれてる、気持ち悪い、一体何なんだ…
が「2時間」、続いた。
そして最後の1時間で、急速に謎が解け、
点と点が先でつながり、スッキリした。

(映像が謎すぎて、
全然笑うとこじゃないとこでふふってなって
恥ずかしかった。)

あまりに意味がわからなくて
「IFの世界(周囲が悪人だらけ)の、
のび太くんの物語だ」と思った。

ラスト1時間、急展開が始まる。

母のイカレ具合や、ボーのイカレ具合が
浮き彫りになっていき
あぁ、なるほど」と
急に映画の趣旨を理解しだした。

MBTIの「J」vs「P」

J型の母親

どうやら、
母は(矯正&誇張された)J型
ボーは(矯正&誇張された)P型

のようだ。

母は、多分恐ろしくP型な親に育てられたのだと思う。

「母は私に火がついて火事になっても消さないわ」
「お前はみんなに判断を任せて、自分だけ無垢なつもり?」

(ニュアンス)
これらの言葉は、文も同じ「矯正されたJ型」として
すごく理解できた。

(意味不明な映像の羅列だった2時間から
急に現実的になって
急に理解できた。
そこの謎解き感が気持ちよかった。)

母の愛されたい欲は
巻き込み、他者への理想化と脱価値化、
異常な、試し行動に現れる。
人殺してまで大掛かりすぎる。

その背景には、P型への
「あぁはなりたくないな」があるのだろうと
予測できた。

Pのボー

最初、「ほんと不憫だな」と思った。
「え、なんで?こんな可哀想なことある?」
の連続だった。

けど、J型の母の視点を考えた後。

思い返せばボーは
ずっと焦点が自分だったな、と気づいた。
自分が助かりたい、危険な目にあいたくない、
嫌われたくない、責任取りたくないetc…。
他者のことを思いやっているようで
思いやってない…。

すると可哀想なボーが
急に(母の言う通り)セルフィッシュで腹立たしく思える。

しかし、そんなボーは
ついに終盤母の首を締める。

Pの罪悪感とか
抑圧した心がこれほど強いとは。

ぼーは、映画の内容もそうだが
世界観自体に
ずっと翻弄されている。

セルフィッシュな事情を
可哀想とは思わないけれど
同タイプの母への反省はあって
「上に強いなにかがあればまあそうなるかな」
と(矯正された)Pについて深く理解ができた。

不自然な描写の真実は?

可哀想な描写は真実か?ボーの妄想か?

人の記憶は強調される。
屋根裏のあんな怪物いるわけないし。

そう、終盤私は
母から死の知らせを聞いたときに
本当に家にボーが帰ってきたくなくて
無自覚に嘘をついてたのかも、と思うようになった。

つまり、行きたくないので
すべて悪夢として見ていたか
わざと鍵を忘れて自分を締め出すよう追い込んだり
助けてくれた家族たちに自分から
「今日は嫌だ、明日にしてくれないか」と
自分から言っていたり…。
それを、
自分が悪者にならぬよう
頭で歪めてたかも、と思うようになった。

母が「帰ってきたくなかったんでしょ!」
とボーを責め
ボーは必死に違う、数々の悲劇があった
と、「本当のこと」を言う。
途中まで私もボー、いいぞ、本当のことを教えてやれ
と思ってた。

が…。何が真実なのか怪しいぞ…。
人の主観はかなりあてにならないな、と思った。

描写①水

水というのは、しばしば死、抑圧、深層心理
のモチーフとなる。

とある宗教チックな村に行ったとき
劇で「きれいな水になった」、というシーンがあった。
きっとそれはボーの願望を表しているのだと思う。

(以下、余談)
映画というものは、以前から思っていたけれど
水モチーフが多い。
この前の正欲もそうだし、海辺の話が多い。
抑圧されたものを映画として表現したい、
という思いを持って映画を作ってるんだな、と思う。

余談:芸術と経営と深層心理

芸術をやる男性、経営者をやる女性は
多くの場合、
生まれ持った性質を湾曲したような傷がある。

つまり、
上に強い「何か」がいて
自分は成功なんて興味ない
と思っていても
深層心理ではそうは思っていないし

下に弱い「何か」がいて
自分は愛されなくていい
と思っていても
深層心理ではそうは思っていない。

映画という究極の芸術をやる男性は結局
成功なんて興味無いと、自分がやりたいだけだと
抑圧した自我をしっかり放出しながら
無意識的に成功してしまう。
だから、芸術の性質上、水が多くなるのだと思う。
で、これだけ水モチーフで成功した映画があるのは
相当つらい人が相当いるのだと思う。

ボーの母も経営者という究極の成功者だったけれど
今度は逆に、「愛されることに興味ないわ」
みたいなふりして、成功の下に
「愛されたい」が一番目に隠れていて、
つらそうだった。

監督もボーの母も
周囲からは間違いなく成功と思われていても
潜在意識を自分で汲み取ることはできない
それくらい自分の潜在意識を知るということは
難しいことなんだと思う。

描写②「鎖」

宗教チックな村に行ったとき
鎖を断ち切るシーンが印象的だった。

鎖といえば
楽曲『鎖の少女』を思い出す(もう10年以上前の曲…)。

https://www.youtube.com/watch?v=zsUmFuFOG7I

この少女は、鎖を断ち切った=親からの支配を逃れられた。
ボーはそれを文字通り「最後まで」できなかった。
(映画の最後&ボーの人生の最後)

あの鎖を断ち切った描写は、
ボーの願望、IFの世界への道筋だったと思う。

どんまい、ボー。

描写③「何事も中庸に」の看板

この映画の伝えたいメッセージの一つが
「何事も中庸に」
なのかな、と今は思う。

人はだいたい、中庸に向かう。
『鎖の少女』もそうだ、
反抗期を経て、家族という小さな群れを離れ
「人間の群れ」で生きてくようになる。

しかし、矯正された母、矯正された息子は
その矯正が過度すぎて、
もはや人間の群れとかどうでもいいくらい
いかれちまっていた。
監督の前作ミッドサマーもそうだ。
もはや「普通」が狂っている。

(多分、監督は自分のそういうところに
危機意識を感じていて映画を作ってると思う。)

宗教チックな村に行ったとき
「何事も中庸に」
の看板が一瞬写った。

ほかの看板に書いてある文字は
なんとなく意味がわかったけれど
「何事も中庸に」…??
終盤まで、意味はわからなかった。

ボーと母親はPとJだ、とわかってから
あぁ、と思った。

人は、バランスをとってはじめて
「人間の群れ」と同じ主観を保てるのだと。
「人間の群れ」と同じ主観を保てないと
主観は、いかに本人にとって真っ当であっても
「群れ」からみたら「違う」とされるのだと。

(まさに、
統合失調症の見ている世界は本人にとって真実だけれど
真実でない、とされてしまうのと似ている)

(そして、大抵の映画監督者は
「自力で治せる」統合失調症なのだと思う。)

群れが見ているものも
なかなか真実とは程遠いのにね。
という問題意識が、監督者に共通してあると思う。

「ボー」の名前の意味

今作の主人公の名前「ボー」(beau)は、フランス語が起源。
男女共に使われるが、主に男性の名前として使用される。
古いフランス語の「beu」から来ており、これは「ハンサム」という意味。
またラテン語の「bellus」にも関連しており「美しい」という意味を持つ。

公式サイト

字幕版で見たけど、「ボウ」と訳されていた
日本語だと「坊や」みたいな意味に思えて
なんかすごくちょうどいいな、って思った
(急に感想うすっ)

総じて、めちゃ面白かった。
「溜まっていた不快な感情が流れた」感じがした。
気持ち悪い映像も多かったけれど
森の光、水の雑音、
各コミュニティの病める健やかさという
リアルで自然な、監督のくれた作品に
最終は癒やされた、そんな映画だった。

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