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最後まで手放せないものだけ、この手のひらで握りしめて-こめ氏のこころぐ-

今年は、なんでもかんでも手を出しまくったと思う。

いや、まあ、学生のときの方が手を出していた。
正確には手を出してみたいなあと思うことがよくあったというべきか。

でもけっきょく、自分って何がやりたかったんだろう。
何をするために、何をしたくて、今、ここにいるのだろう。

夏の忙しい日々が過ぎ、ようやく仕事がひと段落して、そんなことをまた一から少しずつ考えた、この2か月。

考えている最中、どうしても仕事のことって頭にちらつく。
でも、勤務形態が~とか、仕事内容が~とかとか、そういうことは一旦横に置いておいて、

私はどうしたい? と、私に問うた。

こうしたい、こうだったらいいな。
じゃあ、そうするためにはどうしたらいい?

一つ答えらしきものが出ては、問いを何度も自分に投げかけた。

そうやって自分のなかに軸が確かにできてくる。その軸に、思いついた行動を結び付けていった。
どんなことができそうか、そして、それをしたいかを考えていった。

本を読んだり、ラジオを聞いたり、ぼんやりと考えたり、人と話したりして…

自分と向き合い続ける日々を過ごすうちに、いろんな気づきがでてきて、

それなら会社の向かってる先と自分が合うわけないよなあ、とか
私は本当はこういうことに関心があるのか、とか、次第に見えてくるものがあった。

そうして一つわかったことは、
なんでもかんでも選び取っていくことはできないということ。

あれも、これも…こっちも気になる…こんなことはどうだろう…あ、これやってみたら面白いかもな、そう心の惹かれるものはいくつも浮かぶ。

でも、それを果たしてどこまでやれるのか、
つまり、どこまでやる気があるのか、
他にそれ以上にやりたいことはないのか、
あるとしたらそれを抱えながら、私はまだ別の物に手を伸ばす余裕があるのか。

きっと、ない。

何かを本気で成し遂げようとするとき、他に目移りしていたら、その何かを成し遂げることができないからだ。
自分の達成したいこと、ただ一つから目を離さず、ひたすらに立ち向かっていく。
一心に考えて動いて挑戦して…を繰り返して、全力投球する。

それでこそ、はじめてものになるものがある。

それを考えたら、自分の理念からぶれない、ある一つのことをいかにやりこなしていくか、それが今の、来年からの、来年度からの私に大切な考え方のような気がした。

今の段階で、一番心が引っかかる、ピンとくるポイント、惹かれる分野のものだけに絞って、駆け出してみてはどうだろう。

サーファーに例えたら、目の前に波が来て、どの波に乗ろうかと考えている時間ももちろんあるし、必要だ。
それをそこそこやったら、あとは「これよさそう」と思う波に一回乗ってみる。
そして乗りこなせるようになったり他の波に乗ってみたくなったら、波は変えていったらいいわけだ。

もちろん、波を乗り換えるためには条件が揃わないと、というか、自分と波のタイミングが合わないと上手くいかないだろうから、それも見極めつつ。

でも、多分、その気になったとき、人生はちゃんと上手いこと変わっていってくれるんじゃないかなと思う。

その気になるっていうのは、誰かに言われてとか外的なものではなく、自分の内なるものにきちんと向き合って目覚めたとき。

だからまずは、どれか一つを決めて、やれる限りやりたい範囲で、腰を据えてやってみよう。
やるうちに、あ、これいいかも、とか、今度はこういう方向で…、とかまた自分のことわかってくるし。
やっている間も自己分析は続く。



目の前にたくさんの原石が転がっている。
あれもいいな、あっ、こっちも…
手のひらが気づけば原石でいっぱいになっている。

でも、原石は磨かなかったら、ただの石だ。

例えば一つが宝石として輝くまで毎日8時間磨いて10年かかるとして、手のひらに10個あったら80年が経ってしまう。

20歳だったらぎりぎり可能かもしれない。でもそれは現時点での話で、10年経つまでの間にだって、今ある原石を全然磨かないうちに気になる原石をたくさん見つけるはずだ。

でもそのたびに、とっかえひっかえしていては、何一つ磨かれないままに時が経ってしまう。
そもそも、ただの石をそんなに持って80年も生きるってどうよ。

さっきのサーフィンの話とずれを感じるところがあるかもしれないが、一度は自分のものにすることは変わらない。

決めたものを変えることがいけないわけではないし、むしろ変えるべきときもある。

でもまずは何か一個をしばらくやってみる。できるのなら自分の中で納得いくまでやりきってみて、それで次はどうするかを考えて、別のことをはじめてみる。

新しい波に乗るのも、新しい原石を磨くのも、それからでも遅くない。

そもそも、原石を手に握ったまま人生を走り続けるとしたら、片手でそんなに多くの原石は持てない。

途中であれこれ拾っていくとしたらなおさら、走っている間にぼろぼろ、こぼれていく。

手のひらをぎゅっとしたとき、握り締められるのなんか、せいぜい1個か2個くらいだろう。
つまり、最初からそれくらいしか人は持つことができないというわけだ。

え、なに、手の大きさにもよるって?
いやいや、原石の大きさにもよるから、一概に何個とは言えないんだけど、
どうにしろ、数は限られる。

多分そのとき、最後まで手から離さなかった、離れなかったものが、私が本当に大切にしたい、磨きたいものなのだ。きっと。


……という風に、私は考えているわけですが。


磨いたから言うんじゃないんかい、と突っ込まれそうですが(笑)

そもそもどこまでいったら磨き終わりかなんて自分で決めることだし、めっちゃ磨いてる人ほど、まだ途中です、なんて言うのだろう。

まだろくに何も磨いたこともない私だけれど、
あれこれ迷ってきた、絶賛迷走中の私だからこそ、
こんな仮説が立っているのかな、と。
こうして自分の言葉で自分の背中を押してるのかな、と。

やっていくうちに証明できてくることもあるのかもしれない。
でもまた別の仮説が登場するかもしれない。

わからない。だってまだ最初の原石をどれにするか最終調整している段階だから。


今年は、なんでもかんでも手を出しまくった。
だから、手放せるものは手放そう。どうせ、ずっと持っていけやしないよ。そもそもそんなに持っていたいものあるのか。

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クレープ一個持ってたら、あとは何も持てないじゃない。


これからも続く自己分析の中で、要るものをちゃんと見極めていきたいところです。


来年の自分へ、ここまで言葉を綴って2020年を締めたいと思います。



以上、2020年のこめ氏でした。
来年もどうぞよろしくお願いします。

この手のひらで握りしめられるだけの原石を大切に磨いていこうと思った人より


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