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ぼくは紳士然とした人間になりたい

最近、丁寧な言葉づかいをしていて、おちついた感じで話す男性キャラに憧れている。自分もそんな落ち着いた雰囲気で人と会話したい。

いまの自分の言動は感情とシームレスで言動が自動詠唱みたいになっている。あまりにも脊髄反射的で思慮深くないというかバカ丸出しというか、なんだかアタフタとしてしまっている。もう少し落ち着きがほしい。

いまはハイテンポのメトロノームみたい。
理想はクラシック。落ち着き払った言動ができる人間になりたい。
ねずみ年だから落ち着きがないのだという家族の見解にめっちゃ抗いたい。

理想の一例を挙げると、アニメ、宝石商リチャード氏の謎鑑定に出てくるリチャードのようになりたい。現在の見た目は「とにかく明るい」芸人さんだけれども、立ち居振る舞いくらいは紳士然としたい。
24時間365日そうしたいわけじゃない。ギアを入れたとき変身したい。
欲張りなのはわかっている。しかしながら、そうしたい。

コミュニケーションは格闘ゲームか

ときどき、人と人の会話(コミュニケーション)がゲームのように比喩される。恋愛もゲームだとかなんとかいう。弁護士の戦いも何となく相手の出方を読み合うゲームっぽいところも感じるので、あながち間違いじゃないような気がするけれど、格ゲーだけがないような気がする。

恋愛シュミレーションゲームのようなときもあるし、リアルタイムのターン制RPGのような気もするし、戦略ゲームやチェスや将棋や囲碁なんかの雰囲気を感じることもある。友人と野原でバドミントンのラリーや、それこそ言葉のキャッチボールみたいに言われるようなときもある。

だから一概にコミュニケーションは格ゲーだと断言できないような気がしている。推理ゲームみたいに、いまある情報だけで判断して犯人を間違うみたいに誤解や早とちり、嘘や思い込みによるミスリードで取り返しのつかないことになったりもするので、もしもゲームとするならば、めちゃくちゃ複雑なリセット不可能の時間や情報の制約がありまくる、時と場所と場合に左右されまくりのゲームと言えるっちゃ言えるかもしれない。

無意識の脊髄反射で家族(親)と揉める

虫の居所が悪いときに家族からややっこしい話題や、的を得ない会話をされて、言葉尻に傷ついたりして、売り言葉に買い言葉じゃないけれど、ひと悶着あって、本来はもっと建設的に会話できるはずの場面でなんかお互いに言わなくてもいい、言われなくてもいい余計な一言で傷つけ合いながら険悪なムードを経由して声を互いに荒げかけつつ、なんだかんだ「喧嘩はしないでおこう」のブレーキがかかるので着地点をさがして着地することがある。地味に遺恨が残って再燃したりして、半日めちゃくちゃメンタルが悪いまま過ごすことになる。みたいなことが親とのあいだにわりと起こる。

全くしなくてもいい謎の心の重労働をこなして、心がささくれだって、辟易としながら「ごめん」と言いつつ、会話する。これがめちゃくちゃ面倒くさい。親との会話ってこんなに難しかったっけな…。と最近特に思う。

これも、なんだかんだいって世相のストレスが見えない心のささくれを滅茶苦茶うみだしているのかもしれない…というのは言い過ぎにしても、自分のホルモンバランスや親のホルモンバランス、メンタルのバイオリズムなんかが噛み合わないときはどうしたって噛み合わない感じがする。

ぼくはとりあえず、この、無駄すぎる辟易とした繰り返しのしくじりを、消滅できないまでも緩和したい。そのための、自己の内面の改革がしたいだ。

自己認識

自己認識のなかだけのものかもしれないが、ぼくの中で「言動」という行動の前には「思う・感じる・考える」があると思っている。のだが、それがきちんとした間をとって行えていない感覚がとてもある。
自分の言動に関して感情と言葉がシームレスすぎる気がして、何となくそれらしいことを検索していたら下のようなページに出会った。

このページを読んで、なるほどおおお! と思った。

確かに、僕たち人間は何かしらの出来事があって、認知して、感情と行動が発生する。ヤカンを触って、熱いとヤカンから手を離すのが同時に処理される。でもコミュニケーションにおいては感情が認知を飲み込んで行動のフェイズに突っ込むことが多い気がする。思い込みや早とちりだと認知が感情を飲み込んで行動のフェイズに突っ込んでしまう。この一連の、行動までの展開があまりにも早すぎることで起きる面倒事が自分の人生に増えてきているような気がしているのだけれど、これは僕だけなんだろうか。

「もう少し落ち着いて話をすればオカンと喧嘩せんで済んだやん。なんでおれあのとき早とちりしていらんこと言うたんやろ」が、しんどい。


「好き」とか「嫌い」とか「いらない」とか「興味ない」という感情や認知が行動の正当性を生むわけじゃないのに、なんで暴言や暴力や脅迫や殺人の理由が感情や認知にしていいことになってしまってるんやろう…って思う。

出来事 → 認知(思考・判断)・感情 → 言動

熱湯が入ったヤカンを触ったときなど、危機管理として、出来事から言動の速度は早いほうがいいけれど、それがすべてではなく、じっくり処理して言動にうつしたほうがいい場合もある。
コミュニケーションだと、熟考しすぎるのも良くないとはいえ、それでも言動までの手順というか段階を、端折らずにやるべきときがあったりもする。

端折ることも大事だ。
しかし短絡的になる危険性がある。
いま、自分自身の人生においてだけではなく、社会も、感情で認知に影響をもたらしたり、認知で感情に影響させることで、冷静に熟考されないまま言動を起こしてしまったり、言動という出来事の認知と感情を冷静に行わないまま、急いで言動を起こして、その連鎖で辛く苦しい火花が散って、バトルロワイヤルみたいになってしまうこともあって、なんだか、人生の持ち時間に余裕がないままに毎日自分や社会を左右するタイトル戦を戦わされ続けているような気持ちになっている。端的に言えば「ケツが燃えて息苦しい」

人生のメトロノームのテンポを下げよう

テンポが早くて文字数が多くって、噛まずに音を外さずに歌えたらかっこいいに決まっている。でも無理をしても息は続かない。
好きな歌と歌える歌は違う。無理するんじゃなくて地道にちょくちょく段取りをして、焦らずに努力することで歌える歌を増やしていけばいい。
諦めなくてもいいし、ここぞってときにだけ完璧に歌える一曲をまずは身につければいい。それくらいでんと構えればいい。
そんな考え方で、普段の生活はスローバラードのような生き方をすればいい。スローバラードを歌えるようにするには心がけだけじゃなくて、練習が大事だ。まずはスローテンポに慣れるところからだ。一日一スローテンポ。ここからはじまる。つまり、僕が落ち着いた物腰の柔らかい紳士然とした人間になるには、落ち着いた物腰の柔らかい紳士然とした態度を心がける時間と回数を増やすしかない。練習なしに出来るようになってたらもう出来ているのだから。やることはひとつ、一日一紳士然タイム。これしかない。

人生に近道はない。わかっている。でも焦る。けど僕専用の解決策はこれのみだろう。超サイヤ人の状態で過ごして身体になじませる訓練が如く、家族の前でも紳士然とした態度で言動までに時間をかける。一方で、文字化することで認知の強化と、言動における言語化の訓練もしていく。

生きることのすべてを、僕が物腰の柔らかい落ち着きのある思慮深い人間になるための何かしらの訓練にしていこう。



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