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指先まで気を抜かない。の精神。

断定するほうが説得力が増すらしい。

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つまり、技術的に、断定口調で押し切ることができるってことだ。
悪用も可能ってことだ。

だからといって、断定を避けて文章を書くと何を言いたいのかが不明瞭になる。僕は素人なんだから、断定したほうがいい。

けど、断定は怖い。

小学校の学級会からすでに「ぼくもそう思います」で逃げてきた。作文でも断定を避けて「~と思いました」「~と感じました」で字数を稼いできた。

僕は、誰かと意見が異なってしまうことを恐れている。
理由はあるが、理由や原因があれば、いま、断定系を使わない正当な事由になるのかと問われれば、正当な事由にはならない。恐れていることを否定できないし、断定しない書き方を多用したくない。だったら、答えは一つ。

断定系で書く記事を増やしていく。そのなかで、別の言い回しを覚える。それしかない。「だろう」「はずだ」「ではないか」「かもしれない」「考える」「感じる」など、やりようはある。

断定は指先

断定は、ダンスにおける指先への配慮なのではないだろうか。「指まできれいに」とコーチが口にするように、指先が曖昧だと全体の見栄えも落ちる。それはもったいないことだ。そんなふうにダンスの先生が話す姿を見たことがある。指先まできれいだとゴチャゴチャ感がなくて美しい。その感覚は素人のぼくにも伝わるところがある。

切れの悪いおしっこより切れの良いおしっこのほうがかっこいい。いつまでも出るおしっこは、お爺ちゃん感がある。万物にキレの美学は宿るのだ。

断定美・断言美

嘘や偽り、ごまかしを断定を用いて説得力を増そうとするのは、良い悪いの前に美しくない。というのが持論だ。ありのままのたるんだお腹を見せてしぼんでいく様子をのせるほうが好みだ。嘘をゼロにすることはできないかもしれないが、嘘のレートが低いものは書けるはずだ。

ありのままのたるんだお腹をどうにかしようと努力する日々を嘘偽りなく見せたい。苦しみもがいて、ときにリバウンドして失敗するけど、また立ち上がる姿を見せたい。

ごまかして得た結果だけを見せても、続かない。それは、付け焼き刃だ。土台のない砂上の楼閣だ。本当に固められた丁寧な仕事の土台とは違う筈だ。
芋洗坂係長が、あの大きな身体でキレッキレの動きをする姿に美を感じるように、ぼくにとっては、全力であることが、真摯であることが、美しいと感じる。感じるようになってきた。20代までは、パッと見の良さのウエイトが大きかった。でも、30代になって、基本や土台のしっかりしたものに対する思いが強くなってきた。自分自身が、雰囲気善人だったこともあるのかもしれない。本当の善行とはなんぞやと考えるようになったからかもしれない。

心技体。健全な内容に健全なスキルをのせたいものである。だから、雑多にいろんな話題に首を突っ込んでいく様子を残す。書くのは僕の頭か心の中だから、ひとつじゃなくたっていいはずだ。

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