#8 この感覚をどう説明しろと
2019年5月30日。
彼との個人的なやり取りが始まって1か月が経とうとしている。今日は天気もいいし、なんだか気分もいい。仕事のメールが落ち着いているのとは反対に、私の心の中は浮足立っていた。
不覚にも40過ぎてまた恋に落ちたのはどこの誰だ。まるで私、10代の乙女だ。すっかり忘れていた恋心。しかも、相手は旦那でもない、あまりよく知らないアメリカ人だ。突っ込みどころ満載だ。
私にはかねてから抱く「幸せのイメージ」がある。
それは、小さなお家で本を読んでくつろぐある日曜。家事も終わってほっとひと時ついた、10時過ぎぐらいだ。
その小さな家の壁やカーテンはふんわりとした緑色で、昔からそこにあるのが当然と言わんばかりに、無造作に置かれた家具たちからは深い木のぬくもりを感じる。外気と部屋の温度差で腰の高さの窓たちはみな曇っている。私はその暖かい部屋の中で本を読んでいるのだ。
すると、リビングに続く台所から声がする。
私のパートナーがこういうのだ。
I'm making some tea. You want some, too?
そう、英語だからまず日本人じゃあない。お茶作るから、君も飲む?といって作ってくれているのだ。今の旦那でもない。そんなことを言う人でもやる人でもない。
私は茶色の革張りのソファーに脚を延ばして本を読んでいる。彼がマグカップを持ってくると、それを受け取って一瞬本を読むのを止める。彼はソファーの端に私に向き合うように座って、私たちは脚を絡めながらお茶を飲み、そしてまたそれぞれが読書を楽しむのだ。
度々思い出すこのイメージはしかし、このパートナーの顔がどうにも見えない仕様となっている。ただ、話しているのが英語であり、飲んでいるのがコーヒーではないことは確かなのだ。
と妄想からいったん現実に戻った私は、パソコンを打つ手を止めて、ゆっくり目を閉じ、その画に彼を当てはめてみる。
正直、しっくりこないのは彼がアメリカ人で、私の中でアメリカ人はコーヒーという思い込みがあるからだろうか?
そんな妄想旅の途中、ある想いが脳裏をよぎる。
最初に彼と会った時に感じた「空気」はなんだったんだろう。彼が去った後も、彼のデオドラントの残り香とともにしばらく漂っていたあの不思議な空気。
そう考えていると今度は「色」がなぜか浮かんでくる。それが俗にいう「オーラ」なのかは私にもわからない。薄いブルーの球体の周りに薄い黄色、さらに透明のオレンジ色が全体を柔らかく包んでいるのだ。
そのイメージはどこまでも温かい。まるで春の日差しのようだ。本当に柔らかくて気持ちがいいのだ。
現実に戻り時計を見れば、もう夕方5時を回っていた。暇な日はさっさと帰る。私は帰り支度をして、オフィスを後にした。
まだこの時間の渋谷は帰宅途中に遊んで帰る大学生や制服姿の中高生、また観光客が圧倒的に多い。人混みをかき分けて駅まで速足で向かう。
電車はいつだって混んでいる。ここは渋谷だ。
ごっついヘッドフォンをつけた若い男の子、ピンクに染めた髪に鼻ピアスの彼と真っ赤なルージュに黒髪の彼女のカップル。よくよく耳を澄ませば少し離れたところから外国語が聞こえてくる。この電車の中はまるで異次元の世界だ。みんなが独自の世界から来た宇宙人のよう。いったいこの人たちはどこから来てどこに向かっていくのだ。
吊革につかまって電車に揺られ、心地よいリズムが体に刻まれる。電車がトンネルに入ったときに、窓ガラスに映る自分の姿が急に現れた。すると、さっき思っていたことがまた蘇る。
―あの空気、懐かしかったんだよな。
なんだか窓に映るもう一人の自分がぼそりつぶやいた、そんな感覚だった。「懐かしい」という言葉が浮かんだ途端、私はある人のことを考えていた。
Cさんだ。
私の地元にいるスピリチュアルカウンセラーの彼女に出会ったのは、かれこれ5年以上前のこと。
当時は仕事のことを相談していたが、その後仕事も順調になって、Cさんとはずいぶんとご無沙汰していた。
いてもたってもいられず、Cさんのメールアドレスを当時のやり取りを頼りに探し当て連絡を入れる。
すぐに返事はかえってはこないだろう。メールを見てもらえるとも限らない。しかしともかく、次に帰省するときには必ずお会いしたい、そうすぐに連絡しなきゃと思ったのだ。
きっとこの時だったのだろう、私の人生の軌道が修正されたのは。
まるで乗っていた電車が乗客に断りもなく行き先を変えてしまったかのように、それは突然かつ必然だった。
つづく…
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