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家族とフォールト・トレランス

みんなが守りたい「家族」っていったいなんだろう、なんてことをこのところよく考えます。極度に能力・成果主義が浸透した社会で、なんの失敗もせず常に成功し続けることなんてできないでしょう?だから、何があっても手放しで守ってくれる「家族」の存在こそが最後の逃げ場であっていい。そんな愛ある「安全な場」(セーフティーネット)をみんなどこかに保っておきたい、その気持はとてもよくわかります。

ただ、現代社会において「家族」がそのセーフティーネットの役割を果たしているのだろうか、と考えはじめるとどうもそうでもないような気がしてくるのです。

家族は「フォールト・トレランス」ではないかという考察

みなさんIT用語で「フォールト・トレランス」っていう言葉を聞いたことがありますか?日本語にすると耐障害性などと言い換えられるかもしれません。障害フォールト耐性トレランスのあるリスクに強いシステム設計上の仕組みのことを言います。具体的には同系統のシステムを複数持っておくんですね。そうすることで、一方が壊れたりエラーが発生しても、すかさずもう一方に処理が引き渡されるフェイルオーバーことで間断なく処理を続行させることができるようになります。このような多重化された構成を指してフォールト・トレランスなどと言います。

なんでいきなりこんな話をしたかっていうと、現代における「家族」ってこのフォールト・トレランスの構成によく似ているなぁとわたしはよく思うわけです。フォールト・トレランスっていうのはセーフティーネットとは違います。セーフティーネットは失敗してもいい仕組み。一方で、フォールト・トレランスは失敗したときに引き継いでまで処理を継続させる仕組みです。つまり、失敗できない・してはいけない仕組みです。一方が故障したら他方が引き継がなければならないんですから。周囲にとっての被害は最小限で済みますが、当の本人達からしたら大変です。お父さんが倒れたらその借金やら生活費やらは、お母さんやお兄さんが代わって引き継がなければなりません。

「自助努力」(=自分の失敗は自分で責任をとる)が原則になりつつある社会で、このフォールト・トレランスを導入することは過酷以外のなにものでもありません。失敗したら自分だけが被害を被ればよいのではなく、自分の失敗を誰かに肩代わりさせてでも補わなければいけません。「家族」制度を自分の失敗をなんの条件もなく見守ってくれる仕組みだと信じている人が多いですが、現代社会における「家族」制度はフォールト・トレランスではないか、と考えるとまた違った側面が見えてくる気がします。

誰にとってのリスクヘッジか

誤解のないように弁明しますが、もちろん、みなさんの家族の愛情を否定しているわけではありません。ここでは、現代社会において「家族」がどういう局面にあるかその在り方を問うています。

リスクヘッジを考えるときは、「誰にとってのリスク回避なのか?」ということを考えなければならないと思います。借金を損なく取り立てるには、フォールト・トレランスの仕組みが向いています。社会や市場において、わたしたち市民がより効率的に社会に貢献するためには、誰かが肩代わりしてでも補填する仕組みのほうが向いているからです。

一方で、わたしたち個人の生活において安心安全な場をもたらすのはセーフティーネットです。失敗しても生きていける。上手く行かなかったときに誰かに助けてもらえる。困ったときはお互い様と言い合える。そんな「場」なはずです。

あなたが失敗したときに「家族が守ってくれる」と言うとき、何から誰に対して何を守るんだろう?その本質的な問をいま改めて問いかけてほしいと思います。

リスクヘッジはひとりではできない

リスクヘッジはひとりではできません。リスクヘッジとはAかBか答えのわからない問題に対して、AとBに両方に山を張ることです。ひとりで両方の選択を同時に選ぶことはできませんから、個人の自助努力によってリスクヘッジをするというのは実は原理的には不可能です。

商業化・都市化が進み効率と座業に向いた「核家族」が進行し、わたしたちのコミュニティーはどんどん細分化されています。その少数の家族がリスクばかりの過酷な世界のなかで失敗の許されない仕組みで生きています。これこそが生き辛さの根源なのではないか?

このリスクヘッジをどのような構成や体制で行うかによって、わたしたちの社会の生きやすさがずいぶんとかわってくるのだと思うのです。

セーフティーネットは集団によって構成される

では、セーフティーネットはどのように構成されるのだろう。もちろん、いくら失敗してよいって言ったって、より大きな視点でみればその失敗のリスクは世の中のだれかが肩代わりしていることには変わりないかもしれない。でも、その肩代わりがわからないくらいに薄まったときに、失敗してもよい「場」というのが形成される。つまり、セーフティーネットというのはある程度のまとまった社会や集団の中でしか実現しません。

かつてそれは今よりも比較的大きな「家族」だったかもしれない。ここでは現代の核家族と明確に区別するために「お家」と呼ぶことにします。「お家」には主がいてそれを取り巻く集団が存在していました。都市化が進んで産業にとってより効率的な核家族化が進行する中で、その「お家」の役割は日本の場合はとくに終身雇用の「会社」が担ったと主張する意見が多くありますが、わたしもその意見は正しいように思っています。しかし、その終身雇用も崩壊し、人材の流動性を高めるといって転職の機運が高まり、また非正規雇用が多数を占めるようになりました。近年はさらにフリーランスという新しい働き方も推奨されるような動きが強まり、わたしたちの安全が根付くべき集団はますます細断されているように思われます。

話題の夫婦別姓「反対」にも意味がある

そうなると心のよりどころはもう「家族」しかなくなってしまうのです。そういった深刻な状況にあって、今になって夫婦別姓に反対している著名人の多くは、この日本型の「お家」を守ろうとしている主張だと思われます。特にこの自助努力の風潮が激しい環境にあって、セーフティーネットを担う集団を何かしらの形で再形成する必要があるという意味で、夫婦別姓に反対の意見には、それなりの重要な背景があるように見えます。わたしもそこには一定の理解を持っているつもりです。

ただ一方で、それは本質でないような気もするのです。なぜなら、現代社会において「家族」は「お家」の体をなしておらず、むしろフォールト・トレランス型の過酷さを助長しているようにみえるからです。みんなが共に求めているものは、その先にあるセーフティーネットではないかと思うのです。その共通理解を深めることでこの議論をより先に進めることができます。

ゆるい「つながり」をもった組織

わたしたちが現代のリスクの多い社会で豊かに暮らすために求めているのは、セーフティーネットの方ではないかと思うのです。そのためには、ある程度のまとまった集団が必要です。その集団は別に「家族」である必要はないんです。そのために結婚をする必要もありません。無条件に助け合えるつながりが、もし「家族」とそれを形成する夫婦間でしかつくれないのだとしたら、わたしたちは性関係の中でしか助け合いができないことになります。同性婚を認めろとかトランスジェンダーを認めろとかいう議論も差別をなくすという意味では意義があると思います。ただ、より本質的な議論をするためには、その「つながり」にわたしたちは何を求めるのか、が重要です。

失敗したときに助けてくれる。自分の産んだ子供が育てられなくなったら手を差し伸べてくれる。病気になったり怪我をしたときに工面してくれる。いわれのない暴力に対して逃げ場所を作ってくれる。飢えている人を自分の兄弟や子供のように養うことができる。そんな関係は別に「家族」でなくてもよいはずです。そのようなゆるい「つながり」こそがより愛ある豊かなセーフティーネットを育てるのではないかとわたしは思っています。

もし、人生において自分を無条件に守ってくれる最後の砦が、「家族」や「家族愛」であると頑なに信じているのであれば、それこそが人類の最大最後の勘違いではないかと思うのです。

りなる


追記:
同じトピックでこんなnoteも書いています。「結婚」という儀式を取り上げると愛を否定していると感じさせてしまうことがあるようです。それはわたしにとっても本意ではないので、今回はこれをもう少し違った切り口でリライトしてみました。


追記(その2):
世界の普通からさまにて、りなるのnoteに触発されてw 書きあげたというもったいないお言葉をいただき紹介いただきました!!こうやって同じような思いや発想をもった「つながり」がより深みを増しながら広がっていくのがnoteのステキなところだと改めて感じています。(ってか、元記事よりも議論が盛り上がってるし!!wwww)家族の先にある「まち」はこのようなつながりから生まれるのかもしれませんね。


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