愛ある結婚よりも愛おしい世界のカタチ
みなさんなは結婚にどんなイメージを抱いていますか?結婚したい、すべき、したくない、っていう「あり方」について考えることはあっても、結婚という概念そのものが及ぼしている社会影響について考察しているものは少ないと思うんです。
つまり、結婚制度こそが排他的な社会をつくりあげている元凶ではないか?という考察です。
言語化できる自信がないですが、noteにしてみたいと思います。
結婚のイメージは?結婚とは
少し気の向くままネットで結婚についてのアンケートやら実態みたいなものをサーチしてみます。ここは読み飛ばしてもらってもOKです。
結婚について調べると、だいたいこのようなものがでてきます。
これらの情報はすべて「結婚という揺るぎない概念ありき」の話で、それを選ぶか選ばないかの2択の枠から出ていないと思いませんか?
したい・したくないの議論ではなく、そこから少し離れてもっと結婚という概念そのものについてイメージを膨らませてもらいたいのです。
社会の最小単位を生むもの
社会の最小単位って考えたことがあるでしょうか?
夫婦です。もう少し広義に家族と言っていいと思います。この社会の最小構成を結成させる手続きが「結婚」です。
これだけ多様な世界でありながら、どの国にも一様に結婚制度があり、多くのしくみがこの結婚により成り立っていることを考えると不思議です。
制度そのものは各国様々で、また時代とともにますます多様化してます。しかし、結婚という制度や家族という構成そのものに疑問を投げかけている社会の場はまだ少ない、むしろ、ほとんど存在しないように思います。
家族愛は無条件の愛?
家族っていいですよね。わたしは自分の家族が大好きです。何があっても助けてくれたり、成人するまで生活を全面的に工面してくれたのも家族です。結婚してから辛い社会人生活を支えてくれたのも家族です。
結婚をした瞬間から、お財布がひとつになり、財産を共有し、国からもさまざまな援助がもらえます。最も親しく固い、助け合いのコミュニティーが生まれます。
乱暴に一般化しすぎかもしれませんが「何かあったら助けてくれる」それが家族です。オレオレ詐欺だってその常識があるからこそ狙われます。家族を助けるべきって常識がなければ詐欺は成り立ちませんものね。
家族には無条件の愛情を注ぐのです。そこには「家族だから」ということ以外に明確な理由すらいらないのです。
家族愛は博愛の灯だとすら思います。
家族はむしろ排他的
でも、ちょっと立ち止まってみます。
家族の助け合いや博愛の精神を否定するつもりはありません。でも、家族は助け合うものだという精神が、隣人に無関心な社会を構成している、ということに注意を向けるものはあまりいません。
3丁目の金子さんがどんなにお金持ちだったとしても、まったくの他人に何の理由もなくお金を工面してくれることはまずありません。道端で屋根もなく食べるものに困った人がいるのを放置したとしても。それを咎める事すら誰もしない。
家族は助けるけど、それ以外にはとても無関心。トイレットペーパーがなくなった、水がなくなったと言って「家族のために」お店で商品を買い占めたりもします。
家族制度というしくみはとても排他的なのです。
家族ってどこからどこまで
家族のボーダーラインってどこからどこまでですか?
地球人すべてが愛あふれる家族。ワンチーム、ワンネス、ガイア。呼び方はなんでもよいのです。強力なグローバリズムのもと、わたしたちはもう地球の裏側の人類に無関心ではいられません。
ところが、家族はあくまで家族なのです。むしろ、家族という概念があるからこそ、家族は助けなければいけない。逆説的に家族以外の人類は優先度が下がってしまうのです。
家族という構成単位こそが博愛主義の弊害になっている。
そもそも、誰もが誰しもを無条件に愛し助け合うことができたら、家族というカテゴリに何の意味があるでしょう?家族に安定を求めて結婚する意味がどこにあるでしょう?人類は本来、結婚しようがしまいが、みな等しく救われるべきなのです。
この最小の概念から離れられない限り、より大きな概念である、地域格差、国家、人種差別、男女問題などさまざまなラベリングによる組織優位からも等しく人類は逃れられないでしょう。
家族という所有性
家族は人が人を所有するという基本構造からなっています。人は生まれながらに自由だといいながら、子供は親に所有され、妻は旦那に扶養される。
ちょっと強引かもしれませんが、、、わたしたちが今暮らす地球は所有の基本構造をもった社会単位によって成り立っています。
男女差別
男女平等を語る時、男尊女卑の歴史云々ではなく、人が人を所有するという基本構造を「家族」が有しているという根源にこそ目を向けなければいけないのではないでしょうか?
不倫騒動
純愛だロマンスだとマーケティングしながら、一方で不倫だと騒ぎ立てるメディアを見ているとわたしはいつも頭が混乱しそうになります。もちろん、裏切るという行為は許されるものではありません。しかし、生物学的見地から言えば、恋愛も不倫も純愛であることと矛盾はしません。結婚という制度が不倫という人間社会的な事象を複雑にしているのです。
子育て環境
子供が生みの親に育てられなくてはならないという理由もありません。子供は親のものではないのですから。実際、大むかしアメリカ先住民のイロコイ族では子供はすべてクランマザーと呼ばれる部族で一番地位の高い女性に育てられていたそうです。社会に貢献すべくすばらしい若者を養成できていました。生みの親に育てられることが本当に子供の幸せでしょうか?社会の成長に役立つでしょうか?
優秀であっても学費が払えずに進学を諦めてしまう子供たち、モンスターペアレントに育てられた著しく社会性を失った子供たち、暴力の環境に身を置かざるをえない子供たち、彼ら彼女らは「家族」に所有されている限り救えないのです。
資本主義の競争単位
近年、いきすぎた資本至上主義と、そしてそのために巻き起こっている競争社会を疑問視する人が増えてきました。社会制度そのものにムリがきているってことは言えると思いますが、より身近な環境にも目を向けてほしいのです。
わたしたちはいったい何と比較されて、何と戦っているのだろう?
わたしたちの住む街には、多数のホームレスがいます。ご近所にもボロボロのアパートに住んでいる老夫婦もいます。母子家庭もあります。彼らを「家族でないから」という理由以外に助けない理由はなんなのでしょうか?
それは、逆も意味します。
自分がどんなに困窮しようとも、どんなに死にそうになっても、たった5m隣に住んでいる隣人に助けてもらえないのです。だから、安心を求めてみんな結婚をする。その負のスパイラルなのです。
銀行口座はなぜ「家族」だけに閉ざされているんだろう?世帯収入がなぜそんなに重要なのだろう。不思議ではありませんか?その疑問を持ち続けて欲しいのです。
こういった排他的な構成単位こそが、現代の過剰な主義を成り立たせているのです。
わたしたちが競い争っているのは、婚姻という申請に作られた家族という概念なのです。
過ごしたい人と過ごし住みたい人と住む
ただ人と助け合えばいいのです。
将来の不安を埋めるために、小さく排他的なコミュニティーに依存する必要は本来ないはずです。
そこに男女の問題もありません。
異性であろうと、同性であろうと、なんの関係もないのです。
婚姻を「性的結合を基礎とした社会的経済的結合」(広辞苑)とした定義を疑うべきです。
家族のカタチ
わたしは家族や家族愛を否定するつもりは全くありません。
ただ、家族ってなんなんだろう?って今いちど考えてほしいと思っています。
結婚だけが、家族を構成する手段なのだろうか?
満開の桃の木の下で兄弟の契りを交わした3人の漢のように。また、ゴッドファーザーに守るべきファミリーがあったように、、、血の繋がりや、婚姻届とも違う絆があっていいと思いませんか?
好きな人はたくさんいていい。もっと恋愛を愉しんでいい。旧知の友と心ゆくまで語り合えばいい。
人生における繋がりは恋愛だけじゃない、まして「性的結合を基礎とした」つながりが全てだと信じるだなんて、人間の尊厳はどこにいってしまったのだろう。
気心の知れた仲間同士、好きな人同士、価値観を共有するもの同士、もっと助け合えばいい。
家族のカタチを変えれば世界のカタチはまったく違った風景になります。
りなる
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?