セクシュアリティの覚醒
今日は、だらだらとnoteしてみようかと思います。
人間の本能について ーーー 性について。
人間には生まれながらに持っている本能があります。松下幸之助さんも、本能から生まれる欲望を否定するのではなく、うまく導きコントロールするのが理性であり、人類の繁栄と幸福につながるのだと、、、そんなようなことをおっしゃっていました。
にも関わらず、性欲だけはいびつです。性だけは食欲や睡眠欲などとは違って、抑制することこそが正しいものとして扱われています。
否定される本能
こんな疑問を感じたことはありませんか?
雷に打たれたような純愛やロマンスに憧れもてはやされています。その一方で、心のトキメキに純粋であるほどにこの世は生きにくい。「愛」という契約にしばりつけ、不倫だ、不貞だと、パートナーを所有する人形のように扱うのです。
純愛と虐待。人や動物を「所有している」という錯覚が、ともすると虐待を正当化するのです。社会には性の誘惑に溢れています。純愛、ロマンスだと表では叫び続けます。しかしながら、あなたは誰かの所有物だと社会は言います。許可なく肉を食べるなんて不貞だと、あなたの空腹は常にその抑圧に耐えています。
このような抑圧的な活動は、社会に大きな負のインパクトを与えます。世の中のさまざまな問題がこういった性の抑圧に起因しているのではないか、ということを本能的にみんな気づいていませんか?
性のエネルギーと生命の起源
ちょっと横道にそれますが、ずいぶん昔のこと、わたしのおばあちゃんが足つぼにハマっていたことがあます(笑)
なんでかわからないけれど、おばあちゃんは足ツボの健康本をわたしにくれました。「足つぼマップ」と体の関係が妙に面白くって、小学生のころハマって、足つぼ棒を木から削り出して自作したこともありますw
実物。。。わりといいデキ?われながら器用な子だったらしい。。。そして、だいぶ使い込んだ感www
当時、印象的だったツボが一箇所あります。
カカトです。
やる気のなさや、モチベーション向上に効くツボはカカトにあります。生きる上で必要なエネルギーなので、歩くときに刺激されやすいカカトにあるのだと、人体の緻密な設計に魅了されたのを覚えています。
更に気になったのが、カカトは同時に性器のツボでもある、ということでした。
小学生のわたしにはよく理解できませんでしたが、今になって思うところは、おそらく性エネルギーとわれわれが生きる生命の活力というのは同じ起源なのではないかということです。
性を抑圧することが生きる活力を抑圧することと同義であるなら、抑圧された力の行く先を考えると恐ろしいことです。エネルギーは突然消えてなくなるものではありません。カタチを変えて噴出するのです。物理法則と同じです。
抑圧された性エネルギーが向かう先
抑圧された力はどこに向かっているのでしょう。
性についての研究や、実験、書籍などはほんとうに限られています。わたしのような一般人が知り得る知識というのはかなり限定的です。
それほどに人類のセクシュアリティの重要性は放置され、無責任に経済活動や社会に組み込まれ利用されています。多肢に渡る影響と、潜在意識にしみこんだ相関をできるだけ簡潔に表現した図がこれです。(先日、とつぜんつぶやいたヤツ💦)
抑圧された性のエネルギーは別のカタチで問題が顕在化する。
暴力と精神疾患
多くの場合、性のエネルギーは暴力化すると言われています。軍隊などに女性が加わらないことは決して偶然ではありません。意図的に抑圧された性欲は外的な破壊活動に向くのです。
日常の社会では、反社会的な衝動をおさえるために、道徳が生まれたのです。それでも抑えきれないエネルギーは暴力や性犯罪に発展します。これを制御するために更に厳しい道徳による制裁が必要になる、道徳の堂々めぐりなのです。
この堂々めぐりに適応できないものは、最悪の場合は社会に適合できず精神疾患を起こします。現在多くいる社会に適合できない引きこもりは、このおしつけがましい道徳と、暴力化の構造がもたらしているのではないか。そもそも不適合などではなく、本能に対する外的おしつけに脳が矛盾を感じ混乱しているのです。これらは間違った本能の制御に起因します。
経済的悪利用
こういったエネルギーはつぶさに経済活動にも利用されます。愛犬の目の前に、高級な食肉をおいて、食べてはいけませんよ、なんていうおしつけがましいシツケが行われているのです。これはむしろ虐待です。
セクシュアリティが解放され、性欲が適切に扱われた場合には、売春はなくなり、性犯罪も激減するでしょう。
ところが、古い道徳習慣にとらわれた観念だけでなく、社会の構造自体がそれを解決できないジレンマがあります。
社会構造としての「家族」
これはなかなか理解してもらえないかもしれませんが、性の抑圧というのは社会構造にも影響します。
現代社会における「結婚」とは、性活動の社会的承認だと言ってもよい。結婚とは、”性的結合を基礎とした社会的経済的結合”(広辞苑)です。つまり、性の解放は性道徳の観点から、結婚することが最良の解放の糸口であり、最大のモチベーションになっています。そういう社会的構造をもっているということです。
以前、書いた記事も参考まで
性の解放は、一生涯を共にする結婚によってのみ許される、というのが現代社会の表向きの構図です。
権威的な社会構造
一夫一妻「死ぬまで添い遂げる」ということが構造上の組織の最小単位なのです。これが組織に、そしてゆくゆくは国家に生まれながらに所属して死ぬまで決してほどけない絆として従属するという構造的体制を暗黙的に生んでいるのです。これにより作られた家族構成は社会的に手厚く保障されるからです。
地球は今、分散化、民主化の流れに大きくシフトしようとしています。
その中で、権威的な社会構造を変えるのであれば、そのもっともコアな構成要素が「家族」である、ということを知らなくてはなりません。
その家族の構成には、この性の問題が根強く絡んでいます。
本質的に家族は「契約によって」生まれるものでなくてもよいのです。好きな人と、愛する人と、誰とでも家族になれるのです。そして、望まない家族は手放してよいのです。そこには、血のつながりも、不倫も、不貞も存在しません。
社会的弱者を救うためのセーフティーネットも家族という縛りでなくてもよい。
人間の本能との矛盾を埋め合わせようとするから、結婚を美化する必要がでてくるのです。
女性問題
女性問題についてもわたしはちょっとうがった見方をしてしまいます。
女性を性の対象としてみることは、悪ではありません。
男性を性の対象としてみることも、自然なことです。
女性が家を守ることも、子供を育てることも全く自然なことです。性別には向き不向きがあります。もちろん、個体差はあるので、男勝りな女性は外に狩りに出たって構いません。生物的な向き不向きに加え個々の多様性があるというだけなのです。
問題は、性を罪悪としてしまっていることです。そしてそれを利用した経済や、社会構造化がなされているところです。
女性は貞操が守られるべきで、一夫一妻が正義という社会観念が作られています。離婚は法的に許されているとはいえ社会的不利であることにはかわりありません。望まない家族から逃れるためには「経済的自立」が絶対的に必要なのです。現代社会では「家族」に依存しなければ生きていけない社会構造が女性を圧倒的に不利な立場に追いやっているということなのです。
残念なことに、この一点の問題から、多くの女性は女性らしさを捨て、男性と同等に扱われることを望みます。つまり、男性化することに焦点をおいている女性活動家が多いのです。わたしはその観点には反対です。
女性は女性らしくあっていい。いや、むしろ女性も男性も関係なく、ありのままを活かせればそれでよいのです。
女性をセクシュアルな対象としてみることを認め、男女の性を開放すること、好きな人をただ愛することを認めること、それがなによりも女性の解放につながると思うのです。
性教育について考える
性の解放といっても、フリーセックスをしろとか、二股、不倫を認めろとかそういう話ではありません。
セックスを人間同士のお互いの関係性の中に認めたときに、ソウルメイトと出会い、一生を一人のパートナーと添い遂げる人はいるでしょう。性の解放と人間関係は結びついているのです。むしろ、より結びつきが強くなるはずです。
多くの異性と交わる人もいるでしょう。でも、それも個性です。食べ物をいっぱいほうばる男性が好きな人もいれば、美味しいものだけを食する美食家が好きな女性もいるでしょう。それと同じで、性が適切に解放され、食べ物を食すのと同じくらい自然な行為になったとき、それはただの個性になるでしょう。
そして、多くの暴力的観念が同時に消えるでしょう。行き場のないエネルギー消費のための売春行為や、狂気にも似た性癖を持つこともなくなるでしょう。
道徳は人類の本能を抑圧するためにあってはなりません。人類の自己成長と、そのための生命体験の礎に主眼があるべきなのです。人が人らしく生きる社会には、究極的には道徳は不要なのです。
毒されているわたし
こういった社会を構築するのは、すぐにはムリでしょう。
なぜなら、わたしたちがすでにこの性の抑圧や、おしつけがましい道徳社会に毒された存在であるからです。わたしたちこそが老害であり、元凶そのものである、という事実を受け止めなければなりません。
子どもたちに、異性の裸に対しての正しい見解を伝えられるでしょうか?
性は罪悪ではない、とわかっていながら、我が子にセックスを愛情表現として見せることができるだろうか。
性器の発達途上の適切な処理として、マスターベーションを子育てに取り入れることができるだろうか。
こういったことには、もちろん議論が必要だけれども、そもそも医学的効果が検証されたとして、わたしたちの観念がすぐにその領域まで追いつくことは難しいでしょう。
まずは、結婚や家族の構成についてじっくり見直すところから、同性・異性に関わらず、助け合い、愛し合い、家族の輪を広げ、また離脱する自由がみとめられるようになりましょう。
社会は少しずつ進んでいきます。
わたしたちは、その進歩を害さず、吟味して、よりよい子孫の社会のために何をして、何をしないでいてあげるべきなのか、わたしたちこそが消えゆくべき世代である、という悲観を未来の希望に託しつつnoteを終わりたいと思います。
りなる
参考
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