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道徳の道徳はどうどう巡り

大道廃れて仁義あり(老子)

世の中が乱れて、住んでいる人々の心が荒んでいるからこそ、それを矯正するための仁義だったり人為的な道徳みたいなものが必要になる、(仁義なんて本来いらないんじゃね?)っていう老子の言葉。

ここのところ、この言葉をよく思い返します。

どうどう巡り

いま、色んな問題を社会のせいにしたり、政治のせいにしてみたり、さまざまな意見が飛び交っています。

道徳というもの自体が、歴史によってその都度作りだされたものですが、人の本性から逸れすぎると新たな社会問題を生みます。良し悪しはいったん脇に置いておいて、人工的に作られた道徳によって人の本能的な欲求は抑圧されます。すると、禁欲的であったり欲求をコントロールしようとする試みは、文明的であるように見える一方で、別の形でさまざまな神経症であったり、社会問題として顕在化するのです。

こういったイメージが手助けになるかわかりませんが描いてみました。

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暴力、盗み、虚偽 - 反社会的行動をなくすためにある道徳が、その反動として反社会的行動を生んでいて、それを制圧するために更に強い道徳や制裁が必要になります。

どうどう巡りの矛盾した社会構造が生まれていませんか?

道徳が必要になるプロセス

道徳とは、つまりは人としての社会生活を円滑に進めるために、ああしなさい、こうしなさい、あれはしてはダメだと、"道徳的な" 社会人を育成するためにあります。

反社会的行動を抑制するために、人によって作られたものです。

人間社会をある程度統制し、それによって大きな社会的利益を得てきたのです。それ自体は悪いことではありません。

問題はこの道徳(社会理念などと言ってもいいかもしれません)が支配的になるあまりに、人間の本質的な内面性を抑圧してしまうということです。

例えば、人間として「生きる」ための基本的な本能があります。

生きるために食べなければいけませんが、それが制限されたらどうなるでしょう?生きるためには何としてでも食べるものが必要です。相手を蹴落としてでも、生きろ!と人間の本能が叫ぶのです。その結果、盗んだり、強盗をしたりするのです。そして、その反社会的行動を制御するために更に強力な道徳による制裁が必要になります。

でも、考えてみてください。

そもそも、食べるという基本的な行動が制限されなければ、この問題はおきないのです。

道徳的だと信じているもの

食べるという行動が制限されているなんてことないでしょ?と思うかもしれませんが、グローバル社会を見渡すと食べれない人間は地球上に溢れています。そしてそれは、わたしたちが作り出した、あたりまえの社会理念が生んでいます。

経済活動を止めたら生きていけない、という脅迫にも似た観念も、結局のところは働かざるもの食うべからずという道徳観から生まれているのではないでしょうか。

それによって生まれた盗み、暴力、テロ、密売は反道徳的だからと制裁するという堂々めぐりなのです。

もっと深刻なのは、性の問題かもしれません。

これはいずれnoteしようと考えてますが、セックスは悪いもの、女性を性の対象と見ることは悪いことと教えられ、禁欲、女性蔑視だと抑圧され、その一方でメディアでは毎日のように官能的なCMやドラマが垂れ流されています。こういった拷問にも似た社会構造は、異常な妄想を掻き立てます。誤解を恐れずに言えば、フェミニストの運動も視点を変えれば新たな道徳のカタチに過ぎません。

こういったあらゆる「道徳」が人間の本質を脅かし、多くの若者達の神経症を生み、別のカタチで狂気として顕在化するのです。

わたしは生まれたときから道徳的な両親に育てられ、社会に適応する良き市民として育ってきましたが、、、そうやって道徳的だと信じている者が、人間的でない社会構造を生んでいます。

問題は社会だけではなく、わたしの内にもあるということです。

無為自然 - 自律した生き方

いま社会としてではなく、個として、生きるとはなにか?を問われています。

自分に内在した己とは何でしょう?

「わたし」の中には人為的な「わたし」がいます。

世界は一朝一夕では変わりません。それは「わたし」自身の観念が「道徳」に対して常に保守的で隷従的ですらあるからです。変わらなければならないのは、わたし自身なのです。

そして、100年後の孫の孫の孫…世代に「わたし」の匂いが消えたときにはじめて社会は変わるのです。

りなる



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