仲間は強いに越したことない、とは言うけれど②
1話を書いてから、ずいぶんと日が経ってしまいましたが、最近読んだ本とリンクするところもあったり、自分のなかでも時間をおいた故の気づきもあったり面白いnoteになったように思います。
あるがままの自分ってなんだろ
心ある人たちにとって、自分に向き合い、その心や感情を大切にしようという意識は自然に生まれてくるのではないかと思います。ありのままの自分に生きる、過去や未来にわずらわされることなく、現実をありのままに受け入れようとする。この思想はとても美しく、わたしもその考えに傾倒するひとりです。
ただ、そのように誇示する主張に違和感を感じることもあります。この違和感には少し説明がいるかもしれません。この考えの根底にあるのは、社会や環境にある「〜しなければならない」という「固定観念」から離脱しなさいということだとわたしは思うのです。そのためには、ありのままの現実を曇りなき眼で洞察することからはじめなければいけません。これには非常な集中力を要するものです。なんとなくぼーっと自然を眺めるのとはだいぶ違うように思います。
そしてもう一つ、わたしたち個人は「自分」だけで生きているわけではありません。意識を注意深く洞察すると、「自分」という意識そのものが「あなた」との関係性の上に構築されている概念の産物だということがわかるでしょう。自分というのは人や物や環境など自分意外との様々な「縁」によって生まれた概念です。
さて、するとよく耳にする「あるがままの自分」とは何を意味するのか?社会の複雑性から逃れ、自分の趣味趣向にそって生きなさいと言う主張に聞こえますが、これは「社会のルール」が「自分のルール」に置き換わっただけのエゴのように思うのです。インドの思想家サドグルはわたしたちに問いかけます。過去を考えず、未来を考えず、ただ今にあれという教えが蔓延しているけれど、過去も未来も見ず、ただ今を傍観する、そこに人間性はあるのですか?
苦い薬が飲めるわけ
あるがままの自分であるということは、ようするに世の中の「〜しなければならない」を「しない」ことです。そうすることで、自他が自然に溶け合うように浮かび上がってくる。その瞬間の自己をありのまま感じることで、わたしたちの本質的な人間性が現れてくると思うのです。つまり、わたし的に表現をするなら「しない・をする」ことです。
このように社会からの強制ではなく、みずからの自発性に委ねられたとき、はじめて本質的な人間性が表れるのだと思います。あるがままという概念はあらゆる関係性からなる視点の集合体だからです。わたしという個に対して真摯に裸になればなるほど、それは自己と向き合うことにならざるをえません。
もしあなたが病気で、とても苦い薬を飲まなければいけなくなったとしたら、きっと率先して薬を飲むでしょう?それは健康な体に治癒するとわかるからです。
それはきっと社会でも同じことが言えると思うのです。やれ個人主義だ、市場の見えざる手だなどといって、個人の利害にばかり焦点を当てるのなら、社会にとっての苦い薬はいった誰が進んで飲むというのでしょう。自分という狭い視野に埋もれてしまうと、誰も他人のために進んで苦い薬を飲む人はいなくなります。そうやって、お上であったり政府に責任をなしつけることしかできなくなるのです。
本質はもっとシンプルです。おしつけがましい統制から開放されればよいのです。人がもし自身に真摯に向き合うことができたなら、きっと人は進んで誰かのために苦い薬を飲むようになるでしょう。それが喜びになるはずです。そうすることで、社会全体が健康になることが見えるからです。自らを含む他人が健康になるからです。人はいったん近道が見えてしまうと、そこを進まずにいられない動物だとわたしは思います。それは単純な視点の問題です。
社会に生きる意味
わたしは究極的には、世の中のすべての問題は個に帰結すると思っているので、このような社会の問題を解決するには、どうしても個の美徳や人間性の成熟という問題を避けて通れない。つまり、わたしたちは「なぜ生きるのか?」「生きるの意味」の問題にとりくまなければならないと思うのです。
そうでなければ、どこまでいっても計算可能な"ソリューション"に、また新たな"ソリューション"を上塗りするだけの策しか作り出せないでしょう。
それは同時に単に個人の幸せ、個人の利害を追求する、カッコつきの ”あるがままの自分” に陶酔するだけの使い捨ての理想にすがることではありません。「自分」を深く洞察することからはじめなくてはなりません。
メッセンジャーはつながりから生まれる
昨今、多くの宗教家や思想家はこのような複雑化し他者を陥れようとする社会の中で、自己と社会のつながりをうまく説明できないでいるように思います。わたしは次なる時代を築く蒼き衣の人は、たぶん人ではなくって、むしろわたしたち社会の「つながり」のなかから、生まれるのではないか?そんなことをたまに思うんです。
わたしたちの存在は、わたしそのものではなくて、それはつながりのネットワークの上に生まれた概念でしかありません。社会もコミュニティーもまったく一緒です。以前、「分人」についてnoteしましたが、テクノロジーの進化によって、コミュニティーは場所や時間を選ばず多重的になりました。それら複数のコミュニティーに所属することによって、またコミュニケーションやコミュニティーが多層化することによって、わたしたちの社会構造は新しい次元に到達しようとしています。大切なのは、管理・統制よりも対話なのです。noterさんたちとの会話もまたそのような多層化されたつながりのひとつです。
「あるがままの自分」とは自分の殻に閉じこもることじゃない。もっと対話をしよう。もっと自由に交わろう。もっと退屈を楽しもう。そこに映し出された鏡に自分の姿が映るまで。。。
りなる
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