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仲間は強いに越したことない、とは言うけれど①

わたしたちが兵士の一員で、強敵である他国から攻め込まれている状態だったとして、生き残るためにはどうすればよいだろう?一番はじめに思いつくのは、自分がめちゃくちゃ強い兵士であることじないかと思います。更に大事なのは、仲間もめちゃくちゃ強いってことです。たとえ自分自身が弱くっても仲間が強ければ強いほど、自分のいる部隊の生存率は上がりますから。

生存率を上げるためには「仲間は強いに越したことはない」。こう言われると当たり前。。。

誰も強者を望んでいない

わたしたちは競争社会に生きていて、切磋琢磨することによってお互いの能力を高め合い、よりよい組織をつくっているのだと信じてきました。わたしは少なくともそのように教わってきたように思います。そうやって他者よりも秀でようとする競争心が、ゆくゆくは己やチームをより高みに導くのだと。

ところが、以前に内田樹さんが仰ってて「ハっ!」としたことですが、わたしたちは競争社会において友人や同僚が強者であることを、ほんとうに望んでいるだろうか?期末テストの前に「ノート貸して!!」という友達に「どうぞ、どうぞ!」と何の気兼ねもなく差し出せたり、自分より営業成績のよい同僚を羨むことなく、もっと成績があがるように支援することがどのくらいできるだろうか?

チームメイトが強者であればあるほど自分自身の生存率があがる、という当たり前のことがわかっていながら、わたしたちはどこかで自分の周りは弱者で固めたい(自分が負け組に振り分けられるのは避けたい)と願っていないでしょうか?ときには、みんなで肩を組んで「今回の期末テストは捨ててみんなで遊びに行こうぜ」などと言って、組織全体の能力値を押し下げるようなことも起こります。それぞれが競い合って5位を取るのと、みんなでいっしょにサボって結局5位を取るのでは、後者のほうがだんぜん楽だとわかっている組織ではこのようなマイナスの成長も起こります。みなさんの職場や学校ではどうでしょうか?

わたしたちは効率的に自分の定位置を確保するために、お互いを高め合う以前に、足をひっぱりあったり、時には計画的に結託することによって、より大きな視点での安心や安全、持続可能性といった大切ななにかを取りこぼしている可能性があります。

すべてを合理性で判断する

わたしたちの住む社会はどんどん大きくなり、顔も知らない多くの人たちと暮らさなければなりません。そこで法や制度が整備されることによって、万人にとってよりよい暮らしが保証されるようになりました。よりよい生活をめざしてこのような社会が数百年かけて実現されてきたのです。その結果、とても強力な国家が生まれ、大きな発展をとげることができました。

ところが、経済発展が進みどんどん複雑になるにつれ、制度そのものの厳密さや効率化が求められるようになります。固有の制度やしくみは画一化され、できるだけ主観を排し、合理性、計算可能であることが重視されるようになるのです。カッコつきのいわゆる「よい社会」とは、つまりよい制度設計がなされている社会です。制度に従うことでわずらわしい他人との摩擦に関わる必要もなくなりますが、一方で人々は自身の内発的な思いやりや美徳に従うよりも、制度に依存しながら生きるようになっていきます。その判断が合理的かどうかの「損得」に任せるようになっていくのです。全てを勘定計算可能できる社会というのは特に資本主義社会にとってはとても合理的ですが、市民はますます制度に依存し、感情や情緒はどんどん劣化していくのです。

マックス・ウェーバーはこのような社会を「鉄の檻」であると表現し、この檻に依存し、檻の中でしか生きられなくなると人は「没人格化」していくと予見し、実際にその通りのことが現代社会では起こっているように見えます。これを宮台先生風に表現すると「クソ社会」の中で、人が「クズ化」していく、ということになります。言葉悪いですけど。。。

ルールはルールだから

これを以前の記事をまじえて表現するなら、「ルールはルールだから」といって、人々が思考をやめてしまう、考えたりイメージすることを諦めてしまう状態ではないかと思います。

老子は言います。大道廃れて仁義あり。人々が自律的に活動したり己の美徳に従うことをやめてしまう。そのように社会が廃れてしまうからこそ、やれ仁義だ、規則だ、ルールだ、などと言う必要がでてくるのです。

では、何も考えずルールに従うやつはクズだというのなら、ルールを守るか守らないかはそれぞれ個人の裁量に任されればいいのだろうか?たまに、ルールをバカみたいに守るのは返って効率が悪い、だから各々が判断することが成熟した大人の対応だという話を聞くことがあります。それで問題が起こったならそれは自己責任だろうと。多くのものが規格化されすぎてしまい個別具体的な問題を解決できなくなってしまったいま、この主張は一見正しいようにも思えます。

しかし、どんなものであれ、わたしたちが大勢の他人と生活するためにはルールが必要です。そのルール化された集団のことを「社会」と呼ぶのです。ですから、ルールは自己判断によって守らなくていいのであれば、それは既に社会の枠から外れてしまっています。みなそれぞれが無法に生活していることと変わりがなくなってしまうからです。だから、ソクラテスは「悪法も法なり」といったのです。冤罪だとわかっていながら、法の手続きによってくだされた判断にしたがって、毒をもられた盃(死刑)を受け入れたのです。それによって、法というものが私的に運用されてはならず、それはあくまで公的なものであり、だからこそ人間の内発的な美徳を毀損しないものであるのが望ましいと、身を持って示したのだと思います。

社会を構成する上で、ルールは必要だからこそ、われわれの美徳とルールのあいだにある溝を十分に吟味したうえで設計されるべきなのです。更に、それは守られなければならない。だからこそ、ルール化はできれば「しない」ほうがいい。極端な理想を言えば、ルールなどひとつもなくてもまわるコミュニティーが望ましい、とわたしは思います。

どこにも居場所がない

このように経済合理性によって運営される社会では、およそ全てが交換可能な「交換価値」で図られるようになっていきます。

消費者マインドによって価値基準に見合っているかどうかで、あらゆるものを決定しようと努力するようになると、当然の結果として他人や自分自身を含めた人間関係そのものも「交換価値」とみなすようになります。生まれたときから、このような消費者として経済合理性の中に生きてきた若者にとっては、むしろそれ以外の判断基準を知らないかもしれません。

さて、このように全てを交換可能な価値とみなすとどうなるだろう?

友人関係を例に思い浮かべてみてください。自分はかわいいから人気がある、頭がいいから慕われている、共通の趣味があるから好かれている、などなど、みなさんの回りにも自分と他人をつなぐ「理由」があるかと思います。友達というのは本来、理由如何に関わらず代替「不可能」な存在であったはずですが、こういった「〜だから」という関係性の理由すら等価交換に代替されてしまうのです。すると、当然もっとかわいい子は他にもいる、頭のいいやつは他にもいくらでもいる、趣味に詳しいオタクはいくらでもいる、全て「替えがきく交換可能な」存在でしかなくなってしまいます。ご承知の通り、職場ではこの代替可能性はより深刻です。わたしはここに居て良いのだろうか?この漠然とした狂気に追われながら生活することになります。

同じく宮台さんが引きこもりのフィールドワークを行ったという話を聞いたことがあるのですが、みんな驚くほど同じ理由を口にするのだそうです。このことから引きこもりの原因はほぼ間違いなく「社会的流動性の高まり」が背景にあるといいます。終身雇用がなくなり、能力さえあればどこにでも異動できるし、世襲もない社会は一見すると、とても自由で「いい社会」にみえる。けれども、わたしたちが友達である「理由」、あなたが会社に必要とされる「理由」、誰かと一緒にいる普遍的理由はどこにもなくなってしまっている。全てが交換可能ですから。そのような価値観で成り立つ社会には、わたしたちが心から居て良いと思える「居場所」はもうないのです。

生活困窮者の支援をしている奥田知志さんの言葉を借りれば、格差の拡大によって家を失った生活困窮者が蔓延しているけど、より問題なのは人々の助け合いのつながりが失われていることだと言います。奥田さんは「ハウス」を失った路上生活者のことを"ハウスレス"と呼び、家はあるけれど誰かに頼れる「居場所ホーム」のない人のことを"ホームレス"と使い分けています。今深刻なのは、むしろこの居場所のなくなった"ホームレス"の増加なのだと。。。

わたしたちはどこへ向かっているのか

競争はいまや相手を排除するだけでなく、自らが所属しているチームをも蝕んでいます。その競争の元に、全てが比較対象となり、交換可能な量産品と化していくのです。その影響は物だけでなく、人、そしてあなた自身の自己認識にも影響するのです。すると、人生もまた数値でしかなくなってしまいます。数値化され計算どおりに生きているのに、思うように人生が進まない。その原因は計算ロジックを間違ったルールの方なのだと。そう考えてしまうと、もうわたしたちにできることは、制度が悪い、ルールがおかしい、失敗は自己責任、守らないヤツは厳正に罰せよ!つまり制度やその運用方法に対する不満を口にすることしかできなくなってしまうのです。

Twitter、FBなどのSNSだけでなく、テレビのニュースや情報番組まで、みな目先の制度やルールについて突きあっているにすぎません。

さて、わたしたちはどこへ向かっているのだろう?

つづく(たぶん)

 


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