しない・をする【シナイ・ヲスル】:(動・思想)
しない・をするという視点をもつと世界が広がるという話をしばしばnoteでしています。りなるのプロフィールにもなっているので目にしたことがある人も多いかもしれません。でも、その意味をしっかり言語化したことがなかったように思います。
今日は、あらためて掘り下げてみたいと思っています。
しない・をする意味
わたしの中では「しない」について2つの分かれた意味をもつものではないのですが、より広く理解してもらうために、便宜的に意味を2つに分けて説明したいと思います。
1つめの意味:「しない」という行動を軸にする
何もしないとは、いったいどういう状態でしょう?
仕事をサボって家でぼーっとしている瞬間でしょうか?それともソファーでくつろいで意味もなくテレビを流し見している状態でしょうか?どちらの場合も「家でぼーっとしている」という行動であり、「ソファーでくつろいでいる」という行動です。行動そのものを突き詰めると、全く何もしていない状態というのは、死んでいるか寝ているかしかありません。(寝ているときでさえ厳密には寝るという行動をとっていると言えるかもしれません。)
すると、あなたが生きていて意識がある以上、「しない」こともまた意識の選択の結果起こった行動なのです。
つまり、なにかを「しない」のではなく、「しない・をする」のです。
「しなければならない」からの離脱
「する」も「しない」もどちらも行動であるなら、そこには大きな違いはありません。ではなぜ、「しない」という選択をあえて重視するのでしょう?
いま、わたしたちが暮らしている社会では、おおよそすべてのことはその行動の結果によってもたらされたものによって評価されています。成績、実績、資格、権利、財産。。。それらを得るために、宿題をしなくてはならない、大学に行かなければならない、納期は遅れてはならない、満員電車に乗って通勤しなければならない、お客様には頭を下げなくてはならない。。。さまざまな、「しなければならない」ことであふれています。しなければならないことを実行することで評価を稼ぐ、さもなければ生きていけないし豊かに暮らせない、そんな不安定な環境で育ってきたのです。
「しなければならない」という決められたレールにハマる人にとっては、生きやすい世の中かもしれません。しかし、わたしたちは、いまや遊びやレジャーでさえ、その体験そのものよりも、何をいくらでしたのか、映える写真をどれだけとって、いいねがいくつで、フォロワーが何人で、などという評価によって人生の価値が決まってしまうかのような錯覚をいだいています。映える写真が撮りたいから旅行に行くのですか?それは他人や周囲の情報からの外圧によって決められた幻想ではありませんか?
そこで立ち止まってみてほしいのです。
「しなければならない」というのは、誰にとっての条件なのでしょうか?あなたの人生を豊かにするために、あなたのためにしなければならないことなのでしょうか?
思慮深く観察すると、それらはほとんどの場合、世間のルールであったり、会社のルールであったり、親のルールであったり、マーケットの圧力であったり、自分ではない何者かによって決められたことであることがわかります。無意識にあなたの望まない苦しみを選択せざるを得ない状況に追い込まれています。強者はより強者との競争に駆り立てられ、弱き者はより弱く、社会の不適合者として不安と恐怖の中に生きなくてはなりません。
ニュートラルな意識の軸
そこに、「しない」という行動の選択を加えてみるだけで、世の中の見え方はだいぶ変わります。
いままで、選択をせざるを得なかったレールは、じつは「しなければならない」と信じていた選択のひとつだったということがわかるようになります。
「しない」という軸を置くことで、それがほんとうに「あなたにとって」しなければならないことなのか、漠然と感じていた不安や恐怖から意識的に距離を置くことができます。内在する心に外部との距離を置くのです。
いったん「しない」という軸が定まれば、ほんとうにしなければならないことをし、しなくてもいいこと、したかったこと、楽しいことに行動の幅は広がっていくのです。もちろん、しないという選択をし続けても構いません。
人生にはしなければいけないことも決まったレールもありません。むしろ、あらゆる行動があなたの人生を豊かにします。
2つめの意味:行動の本質は「する」ではなく「起こる」
さて、さらにもう少し行動の本質に踏み込んでみます。
前半では、人生にはあらゆる体験があり、それを決めるのは社会ではなく、あなたであるという話をしました。すると、行動の枠は広がり人生は色づき多彩なものに変わっていくことでしょう。
次は、選択するという行為ではなく、選択される対象そのものにも目を向けてみたいと思います。そもそも選択肢としての枠組み(しなければならない、したい、スキ、したほうがいい)を分別しているのは誰なのでしょう?
それが、2つめの意味を紐解くカギになります。
「する」「しない」を隔てる枠
行動の枠組みがあるから選択することができます。選択するという行為ができるのです。
つまり、そこには選べる「対象」が存在しています。
図でいうところの「枠」です。この枠があるからこそ、「それ」をあなたが選択することができます。
その対象の「枠」そのものを決めている主体はなんでしょう?
あなたが「したい」と思って選んだ行動は、何をもって「したい」という枠に分類されているのでしょう?
もったいぶらずに結論から言えば、その枠を決めているものはあなたの意識です。あなたのマインドです。
マインドが見せる幻です。
「枠」は存在しない
少し想像してみて欲しいのです。
楽しいことという「枠」は、何に対して誰が楽しいのでしょう?わたしにとっての楽しいことは、誰かにとっての苦しいことかもしれません。楽しいことというのは、誰かの主観によって変わります。更に、その主観ですら状況や時間によって移りゆくのです。昨日の楽しいことは、明日起こるもっと楽しいことに比べたらとるに足りないことかもしれません。
宇宙には "楽しいこと" などという絶対的な定義そのものが意味をなしません。
宇宙は「ただ在る」のです。
そこに「たのしい」「してはいけない」「しない」などという枠をはめて意味をもたせているのは、あなたの意識です。
行動はただ起こる
あなたは、5つあるリンゴのうち左から3つ目の一番おいしそうなものを選んで食べているつもりかも知れません。ところが、選択肢はボックスの中に隠されていて、勝手にリンゴが5つあるとあなたが思い込んでいるようなものです。ボックスに手を突っ込んで何を選択しようが、ただ言えるのは、あなたは1つのリンゴを食べた(と思っている)ということだけです。
映画マトリックスのモーフィアスだったらきっとこう言うでしょう。 Do you think that's the apple you're choosing now? hmm. (ふーん。君が選んだのはそのリンゴだと思っているのかい?)わかりにくいですか?このシーンが好きで言いたくなっちゃいました(笑)モーフィアスは、選んだリンゴそのものを存在させているのは、君の意識だと主張するでしょう。
つまり、あなたが選択して行動している、と思っているものなどはじめから存在していないのです。
宇宙で起こる事象は絶対的な視点でみると、選択によって何者かが行動したのではなく、それはただ起こっています。
そこに恣意的な意思がはたらくとき、その対象は絶対的ではありえません。無限の相対性が内在しているからです。あなたの意識が対象に空虚な意味を与えるのです。無限に広がる意味を選択することは、まったく何も選択「しない」ことと変わりありません。
その無限に折り重なる可能性の次元に気づいたとき、あなたの行動はただ起こります。大いなる瞑想の中にあなたの意識は溶けてゆきます。
そこに行為なく起こる行動をありのままとらえたとき、然るべくして自ずから起こる事象だけが在るのです。老子の言葉を借りるのなら ーー 無為自然。
これが「しない」ことからいえる本質だと、わたしは思います。
りなる
<つづき>
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