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夜の病院が好きな私と医介輔について

皆さんは、『医介輔』(いかいほ)という人たちをご存知でしょうか?

医介輔というのは、第二次世界大戦下で、医師不足を補うために医師補助として任命された医師代行者「医師免許ではない資格を持ったお医者さん」です。

日本には126名の医介輔が任命され、
戦時中はもちろんのこと、戦後の沖縄で、村医者として、貢献してきた人たちです。

私の祖父がその一人でした。
とても、優しいおじいちゃんでした。

今日は医介輔という人たちについてのお話…
ではなく、

『医介輔』の家族、
私と私の祖父の話をします。

祖父は、沖縄県名護市の小さな村で診療所を営んでいました。

祖父の自宅の北側に、小さな診療所がついており、
平凡な木のドア一枚を開いた先には

治療台、医療道具、一面の薬棚、調合台など、
様々な医療道具が並んでいました。

今では衛生安全面の問題で立入禁止と言われてしまいそうですが、
そこが、当時の私たちの遊び場でした。

リアルお医者さんごっこです。

私たち兄弟にとって、心臓の音は聴診器で聴くもので
診療所は、家の一部でした。

今私の部屋に医療用具がないことに、少し寂しさを覚えます。

机の一番上の引き出しにはいつも6玉のそろばんが置いてありました。
今だからこそ、計算機がとても高価な時代だったことがわかります。

記憶の片隅でも技術の進歩を感じさせられます。

保健の教科書と生物の教科書がとても好きでした。

人体のことがすごく好きでした。

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人体に興味があるというより、
祖父の家で見慣れていただけかもしれません。

祖父が死んで、診療所がなくなっても、

私は頭に負った大怪我も自分で止血の応急処置ができるようになっていたり、
高校の生物のテストと解剖はすごく出来がよかったです。

全然気づきませんでしたが、
間違いなく、祖父の影響です。

親としては、

幼児の頃からホルマリン漬けに興味を持ったり、
目黒の寄生虫博物館に単身突撃したり、
廃墟探索に向かおうとしたり(危険なので遺跡探索で我慢)、
ホラーゲームの廃病院に好感を抱く…など

嫁に行けそうにない娘に育ってしまったのは不本意だと思いますが、

魚の捌き方はすごくうまくなったし、
弟の骨折にもすぐ気づけたし、
肝試しでは先頭を歩けるし…

実生活で役立っていることも多いです。

祖父は国から表彰こそされ、地元では名を知らない人がいないほどでしたが、今ではネットで検索しても全く出てこない、歴史の片隅の人です。

多くの医介輔の方達に勲章を渡すために、忙しい中書類を作り、自分は二の次でたくさんの人を推薦し、最終的には体を壊してしまいましたが、祖父に勲章を渡すために必死に動いたのは

医療とは違う世界にいたはずの、血の繋がらない私の父でした。

すごい人、と言われても、人から忘れられてゆきます。
昔の人はネットにものりません。私も、私の祖父を覚えているだけです。

しかし、
すでに人生の半分以下の記憶になってしまった祖父と祖父の家の記憶、

崩れた塀、庭のシークワサーの木、玄関に飾ってあった金魚たち、なぜか水道代が無料な外の水、地震が来たら絶対危険な車庫、硬くなったホースといった家の様子や

私たちがきて、いつも抱き上げてくれた祖父のこと、

夜中に患者さんが来ても、嫌な顔一つせず、優しい顔で診療していた祖父のことを覚えています。

私は戦争を知りませんが、そこを一生懸命生きた祖父を覚えていますし、

間違いなく、私にはその血が流れていて、その面影が兄弟全員にあることを嬉しく思います。

いつか、祖父のように人に尽くすことができるよう、私なりの社会貢献が、祖父を未来に残すことなのかもしれません。

今と将来の私に何ができるかを、常に考えています。

ご拝読ありがとうございました。

2017.8.18 チカナ

【Wikipedia】https://ja.wikipedia.org/wiki/介輔

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