感情と社会 29

暴力の諸相 ⑹ 情動に対する嫌悪

情動そのものがあまり喜ばしくないという感情は、それ自体が捻じ曲がって矛盾だらけなのですが、情動全般を毛嫌いするという情動は、ずいぶん昔にすでに生まれていたようです。それは、この前の節でテーマにした、「男らしさ」と時期的にも一致しているようですし、「男らしさ」が自己抑制、つまり情動を制御、抑圧することをその徳 virtue の中核にしているところからして、同じ根を持っているとも思われます。

ギリシア古代にすでにアリストテレスが、人間が備えるべき「徳 ἀρετή」として、極端な感情に走らないこととしての「中庸 μεσοτης」を掲げていることには既に触れました。「中庸」という日本語の訳語は、ご存知のように孔子の書に由来するもので、孔子は「庸」、特に優れているわけでもなく、特に変なわけでもない、という人格のあり方を高く評価しました。両者共に、もちろん当時の社会情勢における言表 énonce だという点、また後世の人々がそれをさまざまな言説 discours の編制formation の中で、その都度、都合のいいように解釈している点は忘れないようにしなくてはなりませんが、いずれにしても、一方ではヨーロッパに、他方では東アジア文化圏に、「中庸」が、心を律して動じないことだ、つまりやたらに情動に任せてじたばたしないことだ、という<道徳理念>として、定着していったようです。

歴史の中で支配装置として使われてきたさまざまなイメージ(宗教観念、礼儀作法、血族主義、 男中心主義、家父長制など)の流れの中で、じわじわと、人間たるもの、突発的な激情や刹那的な感情に左右されることはよろしくない、という、情動の抑圧が加速していきます。自己疎外の結果としての自己の喪失、そしてその失地回復のための他者への攻撃と支配、そうやって自己の空疎感と劣等感とを自転車操業のように埋め合わせるというシーシュポス的な作業が、そうした心性を生み出してきたのでしょう。この心性が政治の、また前の節では政治を支える virtue としての virilité として実体化しています。

情動を嫌悪する心性は、心そのものを objet として、つまり自己とは関わりのない対象物として<観察>できるという奇妙な確信と、またそれを支えてもいる「知」という、これまた、自己自身との関連性などないという、神的な聖域があるのだという、奇想天外な確信とを生み出していることは、以前に述べました。ここでは、そうした心性がいかに広汎に、いかに古くから(とりわけ「男らしい」)ヒト社会に住み着いているかを見ていきたいと思います。

キリスト教文化圏においては、とりわけスコラ哲学が隆盛、というか猛威を奮っていた人文主義時代以前は、霊魂とは分離された肉体の忌避、拒絶が訴え続けられていました。食欲、性欲、悲しみ、怒りといった、大罪ともみなされる感情はすべて肉体に由来するものとして、激しい嫌悪と断罪の対象となっていました。ここでは、どうしてまたキリスト教が、身体を伴って当然の命や、それをつなぐための生殖を忌み嫌ったのかに深入りすることはやめておきますが、この、自分自身の身体の営みに対する熱烈なまでの嫌悪感は、20世紀になってやっとやや下火になるものの、おそらくはヨーロッパの社会的感情の巨大な基礎を成したままです。
人文主義の時代を経たデカルトは、『情念論』を著しました。哲学界では、これは情緒の持つ働きを再評価したもの、「優れて現代的な課題を含む」(岩波文庫表紙)ものとして、不思議なことに一定の評価を受けていますが、デカルトがスコラの伝統に則って、あらためて霊魂(彼はこれをesprit、あるいは『情念論』では「能動的精気」と呼んでいます)と身体とをきっぱりと分けており、その前提の上で、身体に由来するだけでしかない「受動的精気」である情念を、あらためていかにして精神の支配下に置くかというマニュアル本を書いたというだけの話です。自ら剣士であったデカルトによる、心を乱されないための指南書ですね。列挙される<感情>もまた、通俗的な区分に従ったイメージ群。
ドレヴィヨンはこうしたデカルトの反情緒的な態度をこう指摘しています。
「デカルトによると情念は動物精気の充満を生み出し、それは、悟性には制御不能な生態学的効果を引き起こしながら、想像力に働きかけるのである。その際、精神を「諸情念がそれに向けて身体を準備させるものを欲するように〔しむけるのである〕。結果、恐れの感情は逃げるようにしむけ、大胆さの感情は戦うようにしむける」のである。しかし、この情念の支配に対し、デカルトは対策を準備する。「予めよく考えること、巧妙であること、それによって生来の欠点を、修正することができる。血と精気の動きと、その動きを通常伴う思考とを、自分の中で峻別できるよう訓練することだ」。こうして恐怖は、それを生み出しうる状況に慣れることで克服できるのである。」(『男らしさの歴史』Ⅰ 、p.433、エルヴェ・ドレヴィヨン)
「デカルトは、自身も剣士であり、今日では失われた剣術書の著者であったが、戦闘術に対し、自分の理論がもちうる大きな帰結を推し量っていた。情念の支配から脱すれば、戦闘者の精神は身体機械を束縛なく表現させることができる。」(『男らしさの歴史』Ⅰ 、pp.433-4、エルヴェ・ドレヴィヨン)

デカルトにとって情緒は制御すべきものでしかありませんでした。この、自分自身との不自由で奇妙なつき合い方、自分の心の内容をわざわざ二分して、片方でもう片方をねじ伏せる。彼が一方を精神、もう一方を情念として対立させたものは、やがて19世紀にはあらためて、知性と情動という対立項として、看板を変えただけでふたたび現れてきます。その前のほんの少しの間、産業革命が本格化し、その労働力を支える核家族が国家的規模で重視されるようになり、その余録として、良き母、家庭を守る良き妻としての女性の地位が変化して、所詮女性には男性のような知性も判断力もないにせよ、子供や夫に対する情愛という豊かな感情があるのだという、現在に至るまで脈々と生き続けている人間観が、ほんのひと時、主にイギリスで男性が支配する思想界に影響を与えます。
労働形態の変化と、それに伴って起きた家族形態の変化が、女性の社会的な役割への注目を生み出し、そうして(女性の特性と思われていた)情動に注目が集まり始めた18世紀あたり、人間感をめぐっては、まだ、情動が社会=道徳の基礎なのか、それとも情動は没社会的=没倫理的なのかの論争が、特にイギリスとドイツで、決着もつかぬままに行われていました。<実証性>がまだ大きな価値を持っていなかった頃の哲学論争です。この論争に致命的な終止符を打ったのは、どうやら「男らしさ」だったように思えます。19世紀に入って、フランスとドイツは、20世紀中盤にまで及ぶ、泥沼と言っていい戦争状態に突入します。20世紀中盤に至るまで、ヨーロッパと周辺地域でもまた、戦火が途絶えたことはほぼありません。19世紀はさらに、産業革命に後押しされた<植民地>への侵略と虐殺、奴隷化が、「男らしい」勇猛果敢さ、不屈さ、恐怖心の克服などを至高の道徳に祭り上げていきます。その一方で、情動は「男らしくない」、女性全部の特質であり、優柔不断、行動力のなさ、意志の薄弱さなどに現れるとして、ついにそれを弁護するような観念的な動きは、ほぼ息の根を止められてしまいました。

やがて、<実証性 positivity>が、「知的」な営みの中心になり始めます。お話ししたように、ヨーロッパでは、19世紀に始まった心理学という新たな知覚が、人の心の機能を、知的な機能と情動的な機能とに分けるきっかけを作りました。この営みの変化の中で、変化をしなかったのが、人の心を2つに分けること、つまり知性と情動との分離、そして分離した上での、情動に対する知性の優位という階層づけでした。
フーコーが指摘した通りで、これはぼくたちが現在生きている社会空間のイメージを決定づけていると思われます。情動と認知とは、切り離して考えることができる人間の機能だというイメージが、さも当たり前であるかのように信じられていますし、局在論的な脳科学者は、認知のありか、情動のありかを、それぞれ別に、脳内で特定できるとさえ主張しています。精神の居所を松果体だと断言したあのデカルトと、まるで同じイメージ。局在論の立場に懐疑的であっても、脳が認知、つまり情動を排除できる「知的」な働きを主に担っていると考える人は、非常に多い。「知」という職種に関わらない大多数の人はというと、通俗的な社会観としてやはり、「情に流されない」「私情を挟まない」「分別をわきまえた」「冷静な」態度を尊ぶ傾向がはっきりと見てとれます。ヨーロッパが辿った文明化の歴史を持っていない日本においてすらそうです。また、イスラム文化圏でも同様、それどころか、より過激な情動の抑圧が一般的です。
情動に対する憎悪と、男性による社会支配、この二つはどういうことか、ほぼどの文明圏にも観察できる、ホモ・サピエンス集団の奇妙な特徴と言っていいでしょう。非ヨーロッパ圏にまでそれが及んでいるということは、情動に対する執拗で陰湿な嫌悪という、自己矛盾に満ちた情動が、男性という文化的感情に由来する支配欲求であることが、推測されます。恐怖を覚えて当然という場面で動じないこと、冷静な<判断力>を保つこと、こうした情動は、他者に対して圧倒的な暴力を行使して相手を殺害、打倒、あるいは屈服させる際に、とりわけ、いえ、おそらくそういう際にだけ、必要とされているものです。兵役訓練で最も嫌悪されるのは、ご存知の通り、恐怖心、憐憫、私情と名づけられている情動です。そうした情動は、トリガーと照準器とナイフと拳の邪魔でしかありません。

情動を嫌悪するという情動が「当然」の「常識」になるには、つまり共有され、内面化されたイメージのルールとして、これほどまでに定着するには、種々雑多の、航跡もひとつにまとまりそうにない、長い時にわたる経緯、編み合わせがあるのでしょう。そのひとつひとつを丁寧に検証していく作業は、心性の重要さを知る歴史学を標榜する人々が増えることに期待してそちらに託しますが、箇条書き程度に、書き出していくことは可能かと思います。いくつかの点は、別の機会に詳しくお話ししてきました。

情動に任せた行動に対する支配装置による嫌悪

キリスト教支配者たちの、民衆の肉体性への憎悪

武家階層の、民衆の放恣さへの嫌悪

支配層の他者との関係性にあっては、情動に身を任せた行動は敵視される(courtoisie, civilisation)

「男らしさ」による支配を可能にする他者に対する優越性確保のための策略

攻撃を優位に運ぶための自己抑制

時として攻撃性は不幸にして行き場を失って自分に向かう

自傷 自滅 タナトス 行動を律する 切腹 自害 - 他者に向けられず自己に跳ね返る暴力

凛とする 形式感の重視 ミニマリズム的情緒(侘び寂びといった情緒も) 激しい身体拘束によるファッション

自己の抑圧 「自己変革」への欲望

こうして列挙したものは、おそらく一般的には、意志や知的判断による自己制御、身仕舞いの良さ、潔さ、決断力、勇気、そして知的な高潔さなどという価値感として、共有されているものなのでしょう。しかし、これらはすべて、情動です。それは暴力に由来するものが多く、また自己に向かう、自己を滅ぼす暴力としても作用しているものです。
「知性」と「情動」とを分けて、「知性」を優位に、あるいはより価値の高いものにしようという心性とは裏腹に、社会を社会として動かしているものが、とりわけ暴力という感情であることを、そうとは感じない大多数の人々が aufheben 棚上げにしている、あるいは気がついていない、という状態が、おそらく気が遠くなるほどの長きにわたって続いています。あまりにも長いこの習慣のせいで、それが重大な帰結をもたらしていることを感じ取るのが、絶望的なまでに困難になっています。
左利きのぼくが配置する台所のレイアウトは、右利きの家人には不便なのですが、家人も左利きなら、ぼくはそのレイアウトが右利きの家人には不便だということにずっと気がつかなかったでしょう。また、身長が180㎝の人の部屋の高い棚の上にあるものに、身長150㎝の人は手が届かないということには、身長が180㎝の人が身長150㎝の人といっしょに暮らさないかぎり、やはり気がつきません。それと同じことが、自分の心に対しても起きています。つまり、生まれつき、暴力を軸とした社会環境にしか暮らしたことがない人は、自分を取り巻いているものが、また自分の中にある感情が、暴力的だということに、気がつかない。

すでに前節でお話しした、「男らしさ 」を「美徳 virtue」とする男性至上主義 macism が、それとして明瞭に感じ取れるようになったのはごく最近のこと。世界では、いまだにそれが感じ取れない文化圏にいる人々がまだたくさんいる状況です。ある程度の期待を込めて、ではありますが、日本では、男性至上主義が社会的な問題であることが、少しずつ感じ取られるようになってきました。男性という観念的なイメージに合致しないという自己イメージを持っている人々(伝統的なジェンダー用語で言えばその大多数が「女性」と呼ばれますが、これも、non-binary に見ればあまり歓迎すべき区別ではありません)に、男性至上主義が場合によっては極端に差別的で不利な影響を及ぼすことが、少しずつ、認められるようになってきました(もちろん、楽観を許すほどにではありませんが)。
70年ほど前の日本社会では、おそらくこんな心性は想像すらできなかったでしょう。日本だけでなく、戦後のアメリカでも『奥様は魔女』(会社員の家で良妻たる魔女が健気に家族を守るドラマ)がそれなりに人気のあった時代でした。『サザエさん』が描くジェンダー構成が無反省に受け入れらていた時代でした。それが今は違います。右利きの家父長が住んで猛威を奮っていた家で、左利きの人たちが抗議をし始めたわけです。すると、やっと右利きは、そのせいで不利を被っている人がいたことに気がつく。心性は、こんなふうにして、その習慣にどっぷりと浸りきっていて、比較する対象もないままだと、まったく自覚されることがないのでしょう。「当たり前だ」、もっと高圧的で強権的な響きの言葉を使えば「常識だ」「ふつうだ」と。
ヒトの歴史を観察する時間の長さをを伸ばせば伸ばしただけ、心性がどれだけ変化しやすいかが見えてきます。暴力性という感情が、今の社会にあってもなお、中心的な感情であることも、いつかそれと感じ取れる可能性はあります。希望を捨てる理由はありません。

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