感情と社会 10

政治という欲望 ー 支配したいという感情

政治と感情との関係というこの考察を始めたきっかけは、政治がどうしてほぼいつも残虐なのかという疑問に対する、ぼくなりの気づきからでした。
政治が残虐なのは、政治家がそもそも残虐な心情の持ち主だから。残虐な心情の人が世の中にはいるということ自体を否定したことはなかったのですが、社会を直接動かしている<民主主義国家>の政治家たちが残虐な人々だということを、ごくりと飲み込むというか、納得してお腹の中に入れるのは、とても大変でした。
まさか、そんなわけないでしょ、という抵抗感を乗り越えた時のすっきりとした感じは、喜びを伴わない、ねっとりとした疲労を伴った満足感でした。そんな満足感も、人って持つことがあるのだなと、変な気分になりました。

残虐さ。他者の苦しみを感じ取ることがない人々。感じないだけに、他者との関係は自分自身の利害を尺度に、この他者は損か得か、それを測るしかない。こういう関係性は、ただひたすら、暴力的です。
この国に限らず、政治家と呼ばれる人たちは、日々常に、騙し合い、出しぬき合いをしています。それは交渉、議論、是々非々、妥協、聞く力などという、一見スタイリッシュな言葉で表されていますが、行動そのものをまっすぐに見れば、交渉、議論、是々非々、妥協、じつは騙し合い、出しぬき合いをするのは、その人たちが不信感に満ち溢れているからだということと、不信感を解消するよりむしろ、不信感を無力化するために、より他者よりも強くなろう、上に立とうという欲求を持っているからだ、ということがわかります。

この節を書いている今、アメリカは大統領選の真っ只中で、じつにむき出しの力の闘争が繰り広げられています。西欧社会が、本当に啓蒙を通過した21世紀の民主主義社会にいるのだろうかと、とても不思議な気分になります。
副大統領に指名されたハリス氏は、政治家というメンタリティをみごとに体現した言葉を使っています。
「America is crying out for leadership. この国は、リーダーシップを渇望している!」
そしてすぐに続けて、
「I’m ready to get to work. 私ならその仕事ができる!」
主語はアメリカ合衆国、つまり<国家>という観念、その観念が意志を持っているわけですね。フレーフェルトのこの言葉をもう一度思い出してください。<国家>という観念が、市民の内面に見事に浸透していなければ、こんな不自然としかいいようがない主語はありえません。(フレーフェルトが取り上げた時代は時を経て、ついに女性までもが、国家と自分自身との重ね合わせをするまでに<進歩>したのでしょうか。)
「フランス革命以降、君主と国家の名誉の概念は、全ての(男性の)市民を包括する国民nationへと、その適用される対象がはっきりと拡大された。その結果、国民のひとりひとりが、外国の政府やそれが代表する国民による名誉の毀損に対して、個人的に侮辱されたと感じることが求められるようになったのである。」(ウーテ・フレーフェルト『歴史の中の感情』pp.81-82)
そして、得体の知れない、実態はただ個々人に内面化された奇妙な感情でしかない主体(America)が、指導者を求めている。では、指導者とは誰か? “I’m ready to get to work.” そう、ハリス氏は間違いなくその一人、あるいは有体に言うなら、まさにその人なのですね。それならば、わかりやすい言葉に言い換えましょう。「私はリーダーになりたい! 私はリーダーの資格がある!」

”America is crying out for leadership.” 見事な修辞的表現です。圧政が当たり前だったローマ時代、修辞を駆使して人心を扇動することがとても重要だった時代の声が、谺ではなく、今こことして響いています。これがハリス氏の言葉の中身、実情です。びっくりするような自己顕示欲です。彼女の対立候補と、この点では違いがまるでありません。
政治家という心情は、そもそも人の上に立ちたい、人を<指導>したい、支配したい、という欲求だということが、あからさまではない形で、実に巧妙に表現されているわけですね。

政治に関わりたいという欲求が、他者を支配したいという欲求であることは、ぼくたちが暮らしている地域の政治家の言動にも隠しようがなく現れています。
辞任した安倍晋三氏は、「地球儀を俯瞰する外交」という摩訶不思議な表現を、辞任表明の会見の場ですら得意げに使っていました。この言葉の裏に、チャップリンが演じた独裁者の、地球儀の風船で戯れる姿が重なる人は少なくないでしょう。このイメージの重なり合いはおそらく、邪推ではないですね。安倍氏と親戚関係にある麻生太郎氏は、憲法の改正に絡めて、かつてこう言い放っていました。
「ドイツのワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。誰も気が付かなかった。あの手口に学んだらどうか」
これが心にもないことを言ってしまったという失言ではないことは、誰にでもわかります。普通なら感情的にタブーだと感じるような話題を、少なくともぼく自身は、<口がつい滑って><思ってもいないのに>言ってしまった、なんてことはありません。そんな心神喪失状態は、そうそう訪れるものではありません。皆さんだってそうだと思います。もし自分がそんなことをしてしまったら、ちょっと自分は心がおかしいんじゃないかと、真剣に悩みます。医師に相談するかも知れません。麻生氏はずっと思っていたことを口にしたわけです。
ヒトラーが持っていたような<思想>(それは思想ではなく、とても歪んだ、とはいえ支配者にはよくある感情なのですが)を、明治以降から55年体制を築き上げるに至る血縁の人々が、そのまま共有しているかどうかはわかりませんが、支配者という同じ匂いを感じ取っていることははっきりしています。こうしたメンタリティは他者を操縦することを望み、支配することを望み、その理想は常に独裁に至り、その状態を確保するために躍起になって、残虐さを露わにすることになります。

『感情の歴史』、それにやはりこの著書と同じ研究チームによる『身体の歴史』などを読むと、人類の政治史が、絶えざる暴力と、その正当化、あるいは被支配層であるぼくたち個々人への内面化という巧みな粉飾の歴史である(あったではありません、現在進行中の、ある、です)ことがはっきりと見えてきます。
ぼくたちはたしかにもう、銃剣や竹槍で無力な人々を突き殺すことが自己充足に直結しているような心情は持っていないのかも知れませんが、相変わらず<国家>は戦争を政治的手段として決して手放しません。政治という欲望と、暴力への欲求の強いつながりを、これほど如実に示していることはありません。

他者に対する暴力性、残虐さで満たされている心情は、ではどうやって育成されるのでしょうか。これを次に考えてみたいです。


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