感情と社会 33

政治家

自己疎外を被った人は、自己イメージを内側から、内発的に作る機会を奪われています。
そういう心の人は、なんとかして自分を保つために、自己のイメージを作る材料を、絶えず外部から取り込む以外にありません。そしてそのイメージが、自分を保つのに十分かどうかを知る手段は、自分が他者よりも強いか、自分が他者よりもより高い位置にいるか、より良い評価を受けているか、より得をする集団に属しているか、などの尺度によってだけ測られます。これが、人間社会の至る所に見られる、ヒエラルヒーを作らざるを得ないという奇妙な風習の出どころなのでしょう。

政治家はこれを、そしておそらくはこれだけを、体現しています。

グドールがチンパンジー集団の暴力的な行動を発見してから、様々な憶測が出始めました。遺伝子レベルで、チンパンジー(パン族)とホモ・サピエンスはもっとも近いと言われています。そこから進化生物学者のある人々は、チンパンジーの群れの階層化構造や他の集団への攻撃性が、遺伝子的にプログラムされているのだ、と推測しています。でもどうでしょう、逆の推測が成り立たない理由はあるのでしょうか。
その逆の推測というのは、ホモ・サピエンスが知っている<文明化>された社会構造を、チンパンジー社会も持っている、と考えてみることです。つまり、チンパンジーも集団維持のために独特の感情的な風習(「倫理」)を作り上げていて、そのために個々のチンパンジーは、集団を維持するために自己疎外という状況に追い込まれている。そういうわけで、チンパンジーはホモ・サピエンスと同じように「病んで」いて、自己維持のために他者を滅ぼす、つまり暴力性が自己自身に向かわないように、都合のいいまやかしをしている。こう考えてはダメだという理由は、いまのところ見つかる見込みがありません。<文明化>という奇妙な社会プロセスを、ホモ・サピエンスに限定する理由はないのです。少なくとも、社会性を、つまり集団を組織化する行動によって、種の維持をしている生物はすべて、それを達成するための何らかの工夫をしている可能性があります。ぼくたちホモ・サピエンスは、たまたまその工夫を、自分たちだけにしかないものと思い込みつつ、<文明>と呼んでいるだけなのかもしれません。
個々の存在を超えた、あるいは個々の存在を軽視した集団の維持という行動、また、あえて言えばそれを支えている「倫理感」は、自己自身をかけがえのないものと感じていることが多い<近代>以後のぼくたちにとっては、それは個としての自己に対する脅威、自己を疎外するものと感じられるでしょう。ホモ・サピエンスはこの行動、それを支える「倫理」という感情を、特に近代に入ってからは、政治という名で呼んでいます。

政治的な心情を持っている人々。
集団を集団として律することを欲する人々。
自己の欲求の充足、恐怖や不安の回避のために、他者を無名の(無価値な)集団として利用しようとする人々。
他者は利用するか滅ぼすかとしか感じられない、報復のための暴力を振るう人々。

政治的な人々が、ぼくたち個々人の、実に千差万別で多種多様な命と、暮らしと、気持ちとに、そもそも興味を持つなどと考える方がおかしいのです。
支配したい、のし上がりたいという暴力的な心の人々にとっては、ぼくたちは統計上の数にすぎず、課税対象、つまり収益の対象でしか、あったことはありませんし、現在でもそれ以外のものではあり得ません。人間という集団は、人口統計として、GDPとして、取り扱われるだけです。
時としてそれですらありません。被支配層はただの邪魔者でしかない場合すらあります。支配層自らの資産すら危うくしてしまう破滅に向かう政治は、ぼくたちが20世紀に目撃し、体験してしまいました。為政者、支配層が、ただの劣等感と resentiment(逆恨み)からくる報復に明け暮れることは、現在でも特に自公政権や維新の行動に明らかですし、通俗的な物語としては、ハリウッド映画の『スノーホワイト』の女王が、そのさまをうんざりするほど克明に描き出しています。

支配層の暴力的な発言、行動は、熱狂的に支持されることがあります。ドイツ帝国がその典型例でした。支配層は常に、被支配層を報復の対象か、利益を得るための道具としか感じ取れませんが、被支配層にいる人がひとたび、その暴力性が自分には及んでいない(私はアーリア人でユダヤ人ではない)と感じ取った時、被支配層の内にある暴力性と報復への渇望は、支配層とみごとに同調します。そして自分が、まさに支配者が、あいつこそが敵なのだと喧伝する相手を、支配者と自分とを重ね合わせることで、共に滅ぼそうとします。そうした行動は、 被支配層に、「栄誉」という感情すらもたらします。こうして支配層が発動する暴力は、地滑りの連続のように、とどまるところを知らない勢いで社会を荒廃させていきます。
ドイツ帝国では、滅ぼすべき人々が特定され、しかも大量だったために、人類史に深く刻まれる感覚をぼくたちに植えつけました。何か、空前絶後の、最悪の事件が起きていたかのような。しかしドイツ帝国は、近代世界史における例外ではありません。例外などではなく、まさにこれが、暴力を本質としている、支配という仕組みの、包み隠さない裸体なのです。同時期にあった旧ソ連軍の組織的な虐殺、スターリン体制下での「粛清」、日本軍による各地での残虐行為、アメリカ合衆国で抑留された日系人に対する扱い、戦後すぐに起きた毛沢東政権によるすさまじい「粛清」、インドシナ紛争とそれに続くベトナムの惨劇、南アジアと中近東での終わりの見えない紛争、ポルポト政権による大虐殺、ルワンダでの大量虐殺、ユーゴスラヴィア崩壊前後の殺戮の連鎖、ロヒンギャの虐殺、クルド人の虐殺、香港の弾圧、ウイグルの弾圧、そしてウクライナ——。この暴力のリストは、まだまだ増やすことができます。ピンカーは、それでも戦後の死者数は激減していると、得心した彼の笑顔が透けて見えるようなコメントをしていますが、人の命はもちろん統計的な数値に還元できるものではありません。地球上のありとあらゆる場所で、日本の出入国管理局ですら、止むことを知らない暴力が起き続けていることを、直視する必要があります。

宗教という奇妙な仕組みも例外ではありません。(他者に関心がなく、また他者を侵害しない、あくまでも個人に限った上での信仰は、そしてそれだけは、ここから排除してもいいのでしょうが、はたしてそのような信仰があるのかどうかは、疑わしい限りです。)現在に至るまで、宗教的な支配層は、その力を維持するために、霊魂の救済という物語を操って、被支配層が互いに信頼関係を決して持たぬよう、激しい差別意識を植えつけ、その感情から逃れるために支配層にすがらせるという巧妙な機構を組み上げています。激しい差別意識は、もちろん、支配層が持っている感情がその故郷であり、その模範でもあります。宗教がやってのける弾圧と虐殺は、列挙するだけで気が遠くなってしまうくらいの数に上ります。
宗教もやはり、集団を集団として支配統制するための仕組みである点では、ぼくたちが政治と呼んでいるものとなんら区別はありません。フランスにおいて、カトリシズムと政治とが、いかに被支配層の心性を規定し、蝕んでいたかは、コルバンの『人喰いの村』に見事に描き出されています。
キリスト教やイスラム教に限らず、政党の本体、あるいはその背後に宗教があるという状態が、日本に限らず、世界中至るところで見つかるのは、皆さんすでによくご存知のはずです。

報復心から起きる暴力の連鎖。暴力のひとつの源泉ははっきりしています。生育環境における自我の剥奪。そこから引き起こされる自己疎外。疎外が引き起こす日常的な不安と恐怖。疎外された自我を満たすための、外的評価への癒えることのない渇望。すでにそれ自体が他者への暴力性の源ですが、渇望がさらに激しくなると、比較される他者の殲滅へと突き進みます。
報復の連鎖が問題なのではなく、報復をしようという心を育ててしまうこと、つまり、ぼくがずっと追い続けている残虐性を幼少期から育ててしまうこと、これがおそらく、暴力、したがって政治的な心情の連鎖と、それを断ち切る上での核心部分なのです。

政治(集団を集団として支配しようという欲求を実現するための行動)がそもそも残虐な心性を前提にしていること、これを感じ取ることができれば、「政治をなんとかまともな方向にする」ことが、社会の改善につながることはないと、そうはっきりと言えると思います。
そして、政治を志す人、政治をする人が、そのせいで暴力的であるわけではないことは、今さら繰り返す必要はないと思います。自己疎外という過酷な環境から生まれる暴力性は誰でも持ち得ます。この情動そのものがすでに政治的なのです。

肝心なことは、政治に向かう欲求を持つような心性を育てないこと。これに尽きます。そのために、生まれた子どもとどう接するかが、暴力という感情を軸に動いている今の社会を変える、唯一のチャンスになります。

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