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無意味で無価値な人生をいかに本気で生きられるか。
何をするにしても意味がなければ行動できない人もいると思う。
自分もできる限り意味のないことはしたくないと思ってるし、時間の無駄に感じるようなことは一切したくないと思ってた。
でも最近気づいたことが一つある。
それは、「そもそも意味のあるものって何もないんじゃないか?」ってこと。
一般的にはすべてのことに意味があると言われている。
自分も「どんなに無駄に思えるようなことでも意味がある」「無駄だと思うから無駄になるんだ」という考えを昔は持っていた。
だけど冷静に考えてみると、人生の中でおこなう行動のすべては無価値だし、世の中に存在する仕事のほとんども無駄だし、そもそも人類は空気を汚染し大地を汚し自然を破壊してる地球のガン細胞だし、人生自体に何の意味もないことに気づかされる。
「自分」という存在にしても、仕事の面でもいくらでも代わりはいるし、人付き合いにしても居なくなったら居なくなったらで別の誰かと人間関係を構築するだろうし、恋人は別の誰かと結婚して幸せに暮らしていくだろう。
つまり、この世のすべてのものは無価値で無意味でまったくの虚構でしかなく、そこに「意味」を見出すのは自分を慰めるための手段であって本質的な真実から目を逸らしているだけである。
近所の酔っ払いのおじさんがぼやくように、「真実は詩に似ている。でも多くの人は詩が嫌いだ」。
すべてが無価値でも「やる意味」はある
ここまで読んだ人は、きっと内容の暗さにウンザリしているだろう。
書いてる自分もなんだか暗い気分になってきたし、今すぐスマホをゴミ箱にポイしてお気に入りのヘッドホンでお気に入りの音楽を大音量で聞きたくなってきた。
でもちょっと待ってほしい。
ここまでは今まで何度も考えたことがあったし、何度も人生に絶望して悩んだし、その度に自分を誤魔化してなんとか現在まで生きてる。
最近気づいたのはこの先の話。つまり、「人生は無価値で無意味なものに、いかに本気になれるかが勝負」ってことだ。
まず前提として「すべては無意味」として受け入れる。
人生も仕事も恋愛も人間関係も何もかも虚構で意味がなく価値なんてない。それを素直に受け入れる。
この真実に反発するのは投資で逆張りするのと同じで愚かなことだ。真実からは目を逸らしちゃいけない。
でも、すべてが無意味で無価値だからといって、「何もかもやる価値がない」わけではない。
というのも、物事には「意味」はないかもしれないが、やることで何かしらの「効果」が得られる。
この効果こそすべての物事に意味と価値を生み出すのだ。
無価値なものに価値を与えるもの
たとえば、筋トレに対して意味を感じない人は多い。
「別に筋肉なんていらないし、わざわざキツい思いをする意味がわからない」という言い分だ。
なるほど、たしかに理に叶ってる。筋肉が欲しくないのであれば筋トレをする意味なんてないように感じる。
しかし、自分が筋トレをするのは「意味を感じている」からしているわけじゃない。
筋トレから得られる副次的な「効果」のためにしているのだ。
もちろん、ここで言っている効果は「筋肉がつく」という効果のことではない。
自分が筋トレから得ている本当の効果は「充実感」である。
この充実感こそ、すべてが無意味で無価値な世界の中で、すべてに意味と価値を生み出すのだ。
仕事や恋愛に対して意味を感じない人もいるし、人間関係もいらないと思ってる人もいる。
たしかにすべては無価値で無意味だ。
でも「仕事を頑張った」「恋愛をしている」「気の合う人間関係を持っている」という事実に対して副次的な効果が生まれる。
それが充実感である。
人生は自己正当化で成り立っている
カズオ・イシグロの「日の名残り」という本に登場するスティーブンスは、執事としての品格だけを求めてずっと生きてきた。
偉大な執事を目指しながら、父が死んだ時も自分にとって大事な同僚が辞めていく時も、スティーブンスは自分を殺し感情を殺し、自分が思い描く偉大な執事として振舞ってきた。
しかし、休暇の旅の最後にスティーブンスは自分の人生に悩んでしまう。
「もっとほかの生き方があったのではないか?」と涙を流す。
でも今さら後悔したところで意味はないし、「ただ偉大な執事を目指して生きてきた。その事実が自分に自尊心と誇りを与えてくれる。それだけで十分人生は素晴らしいものだ」と悟る。
スティーブンスもまた、人生は充実感を感じられればそれだけでいい、と気づくのだ。
これは自己正当化にも感じるが、自分を正当化して幸せを感じられるならそれでいい。
周りに迷惑をかけない限り、自分を思いっきり正当化し、自分に自信と自尊心を持つのは生きる上で大切なことだ。
意味のないものにいかに本気になれるか
何に充実感を感じるのかは人それぞれ違う。
スティーブンスのように仕事だったり、恋愛することで毎日が充実する人もいる。
友達と遊ぶのが充実した時間だと言う人もいれば、一日中ゲームをすることが自分にとって充実した時間だと思う人もいる。
でもなぜだか世間では、人それぞれ違うはずの「充実感」が商品化されている。
毎日を充実させるには早寝早起きが大事だとか、ゲームやテレビは無駄だとか、YouTubeを見てゴロゴロしてる奴はバカだとか言われる。
自分が充実を感じる時間は他人も充実を感じると勘違いしているのだ。彼らこそ本物のバカ者だ。
人によっては科学だとか持ち出して「この研究では〇〇の人に〇〇の実験をおこなった結果、〇〇の効果がありました。つまり、〇〇をすれば充実感が増すということです」なんてことをほざいてるアホもいる。
人間の抽象的な感覚を科学を持ち出して説明しようなんてペテン師のやることだ。小学生から勉強し直したほうがいい。
SNSのインフルエンサーなども、わかりやすく箇条書きで「理想的なライフスタイル」のようなものを見せつけているが、「それはあなたの感覚であってほかの人に薦めても合わないだろう」といつも思う。
でも大多数の人はフォロワー数と権威力によって、あたかもそのインフルエンサーが述べていることは真実だと思い込む。
だから情報に振り回される人が絶えないのだろう。
すべてが無価値で無意味な世界の中では、結局のところ、どれだけ充実を感じられるかが勝負なのだ。
充実感さえあればそれだけで人は強く生きていける。
自分にとっての充実した時間。それだけを追求していけばいいのだ。
意味のないものにいかに本気になれるか。
「丁寧に生きる」とは言わないが、一つひとつのことを一生懸命やっているだけで、充実感と達成感が一日のすべてを、そして人生そのものをそれほど悪くないものに変えてくれるのではないかと思うのだ。
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