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依存と執着は人の心を弱く脆くする。

依存と執着。この2つは生きていく上でとてもやっかいな感情である。というのも、人がもっとも脆く、弱く、愚かになるのは、何かに依存したときと執着したときだからだ。

現代には依存心と執着心を持った人たちがたくさんいる。自分の周りの人たちだけでなく、SNSや娯楽コンテンツに依存している人の数が近年かなりの勢いで増え続けているのがわかる。

たとえば、多くの人は1日たりともスマホを持たずに生活すると落ち着かないのではないだろうか。5分間の空き時間があるだけでも、現代人はスマホでSNSをチェックするのが習慣だ。これはご飯を食べた後に一服する喫煙者と同じである。

執着においても、現代人は自分以外のさまざまなものに執着している。それも過剰にだ。まるで自分以外の何かのために生きていないと不安であるかのように。

この記事では、人間の依存と執着について考えていく。はじめにハッキリ言っておくが、過度な依存と執着はあなたの人生をめちゃくちゃにしてしまう。人は自分の人生を自分の意思で生きているときだけ、本当の意味で自由になれるのだ。


依存と執着

依存と聞くと、多くの人たちは恋愛での依存を思い浮かべるだろう。異性に対し過剰なまでに依存し、その人がいなければ生きていけないと本気で思い込んでしまう。自分の傍からいなくならないように常に恋人にべったりで、浮気への目を光らせ、いつどこで何をしているかまで詳しく知りたがる。

しかし、依存は何も恋愛だけに限った話ではない。親や兄弟といった家族、友達や職場の同僚といった相手に対しても、恋愛とは異なった依存心を抱くこともある。ほかにも、タバコやお酒、ギャンブルやセックスといった娯楽に依存する人も少なからず存在する。

一方、執着は依存に似た概念ではあるものの、その対象は人だけに限らず、モノや習慣、趣味や仕事、考えや価値観といった抽象的なものに対して抱く感情である。たとえば、何がなんでも仕事を失いたくないと思うのは、その職業に対して過度に執着しているといえる。

人間に依存と執着は、抑えきれない感情が起点となっている。恋人に対する依存も、仕事に対する執着も、自分で自分の感情をコントロールできていないからこそ、自分のものではないものを過剰に求めるのだ。

でも、人生においては自分の外部のものを必要以上に求めるのは、不幸のはじまりでもある。


執着は自分の生活を乱す

私も昔は依存と執着の虜になっていた。今でこそ、過度に依存したり何かに執着することは減ったが、昔は感情のままにさまざまなものに執着し、色々な人に依存しながら生きていた。

私が何かに執着したくないのは、自分の生活が乱されるからだ。自分以外のものを必要以上に求めてしまうと、それを手に入れることに頭の中がいっぱいなる。自分の生活スタイルやルーティンといったものも、何かに執着しているとそのことばかりを考え、自分の生活をないがしろにしてしまう。

自分なりの「いつもの日常」はとても大切である。誰しも自分の習慣やルーティンを持ち、自分がもっとも楽に生きられる生き方を自然としている。もちろん、それらに執着しすぎるのも良くないが、放っておいても同じような日々を送っているのだとすれば、自分にとってそれがもっとも心地いい日常なのである。

しかし、外部のものに依存や執着してしまうと、心地いいと感じているはずの日常を捨て、ほかのものへと心が動かされてしまう。それは自分が心地いいと感じている日常ではなく、依存と執着によって自分のものではない日常を生きることになる。

私が執着することを嫌うのはこの点である。つまり、自分の日常ではなく、外部から与えられた日常を生きている感じがするのである。


依存は他人の人生を生きるのと同じ

自分の日常を生きているときは、人生の主導権を自分で握っている感覚がある。

だが、依存や執着によって外部から与えられた日常を生きてるときは、自分の人生を生きている気がしない。時間も心の状態もすべて外部のものに振り回され、自分で自分をコントロールするのが難しくなる。

恋人に依存している人の頭の中が、恋人のことでいっぱいになってる姿を想像すればわかるだろう。依存は自分の人生を生きることを放棄してるのと同じだ。

すべては依存の対象によってコントロールされ、今日が幸せな1日になるか不幸な日になるかは、依存している人の手に握られている。まるで首輪をつけられた飼い犬状態だ。

執着も同じく、執着することに執着することで自分の人生を生きるのが難しくなる。執着心によって生活リズムやライフスタイルがコントロールされれば、自分に主導権はない。本人はそれなりに満足しているかもしれないが、自分の人生を生きていない人の未来は絶望的でもある。

常に誰かに依存し、何かに執着し続ける生き方が幸せかどうかは考えなくてもわかる。いつも落ち着きがなく不安そうな顔を浮かべ、心配事が尽きず顔色が悪い。自分で自分の人生をコントロールできていないとき、人はネガティブで消極的になってしまうのだ。


過度な執着と依存を持つと不幸になる

でも、依存と執着をしない生き方というのは、好きなものを持たない生き方ではない。依存や執着なんてしなくても、好きなものを持ち、それらから喜びや幸せを感じることはできる。ただ、必要以上に外部のものを求めてはいけない、と述べているのだ。

何度も言うように、依存心と執着心は人を弱くする。いや、人は元々弱いからこそ何かすがるものを求めて他人に依存し、自分のコントロール下にないものに執着してしまうのかもしれない。

好きな人や好きなものに囲まれた生活は幸せだ。しかし、それが依存と執着になれば話は別だ。「こだわり」というのも言い換えれば執着と同じである。こだわりは適度に持つのがいい。こだわりを持つことにこだわれば、執着することに執着するのと同じになる。これもまた不幸な生き方である。

結局のところ、人生は柔軟性が大事なのである。依存と執着を捨て、常に変わり続けることを許容し、その場の状況と環境に適応しながら生きていくのが、人間にとってもっとも自然な生き方なのかもしれない。


依存と執着をやめるには

生きていればできるだけ楽しいことや嬉しいこと、幸せを感じたいと思うのが人間というものだ。誰も好き好んで不幸な人生を歩んだりしないだろうし、嫌な出来事やストレスを感じる出来事、悲しいことや苦しいことを感じずに生きていきたいと思っている。

でも人生はそんな人間の願いとは裏腹に、毎日私たちに石を投げつけ、壁にぶち当たってすっ転ぶ姿を見て楽しんでいる。人生は私たちが幸せになろうが不幸になろうが、悲しもうが楽しもうが知ったこっちゃなく、嬉しい出来事も嫌な出来事もすべての人に平等に与えているだけである。運の悪い人は不幸が連続することもあるけれど。

ここからは、依存と執着を現代人の日常生活の観点からもっと深く考え、依存と執着をやめるにはどうすればいいかを考えていく。


人は不安だからこそ依存する

よく周りの人たちから「楽しみがないとやっていけない」「ストレス発散できるものや、癒しがないと頑張れない」という声を聞く。

どうやら人はなにかをするためにはエネルギーが必要であり、そのエネルギーは食べ物のカロリーとは別物のようだ。マクドナルドや二郎系のラーメン、ステーキやタピオカといったカロリーだけでは頑張ることができない。ああ、なんて燃費が悪い生き物なのだろう。

しかし、頑張るためや努力するためにカロリー以外のエネルギーが必要な状態というのは、はたして人間として正常だといえるのだろうか? 人はどうして、タピオカを飲んでお腹をたぷたぷさせて満足することができないんだろう?

結局のところ、人間という生き物には他人という存在が不可欠であり、他人に依存しなければほとんどの人は生きていくことができない。昔の時代にキリスト教やユダヤ教といった宗教が流行っていたのも、何かにすがって不安を和らげるため、何かに依存することで生きる希望を見出すために神を主体とした宗教に白羽の矢が当たっただけである。

つまり、依存と執着をやめるには不安な感情をどうにかしなければならないのだ。


依存は依存を深める

現代には「いんたーねっと」という20世紀最大の発明があり、「すまーとふぉん」などというヒョロっとした長方形型の画面の上で親指をたくみにスライドさせることで、世界の裏側にいる人ともコミュニケーションをとることができる。

もちろんこの文章も、「すまほ」の画面の上で吊りそうになりながらも親指をひたすらスライドさせるという芸当が生み出しているものである。そして疲れたらパソコンの前に座り、5本指を駆使してひたすらキーボードに指を叩きつけるのだ。

現代には過去と比べて依存する対象がそこら中に溢れている。友達や恋人、家族や職場仲間といった人間関係や、音楽やスポーツ、ゲームやYouTubeといった娯楽、釣りや散歩、登山やスキーといった趣味まで、現代人は依存しようと思えば、興味があるものであればいつでも好きに依存することができる。

しかし、そうした依存と執着にまみれた人生を歩んでいると、さまざまな色に着色されたサーティーワンのアイスや砂糖がたっぷり入ったふわふわのパンケーキ、見るからに美味しそうなA5ランクのステーキや和牛カツサンドといった食べ物のエネルギーだけでは生きていくことができなくなる。

不思議なことに、人は常に依存する対象を求めるものだが、カロリーだけに依存して生きていくことはできないようだ。

そして逆説的なようだが、不安をなくすために依存と執着をするのは、かえって依存と執着の度合いを深めているだけである。この負のループにハマると抜け出すのがとても難しくなってしまう。


人生の意味は自分自身

楽しみを期待しながら日々を過ごすのは、自分の中に依存心が強く現れている証だ。幸せになりたいと強く願うのは、依存できる他人の存在を求めている証だ。

勘違いしてほしくないのだが、これは決して依存することが悪いと言っているわけではなく、不安を解消するために過度に自分以外のものに依存や執着をするのが良くないと言っているのだ。

不安の解消のために依存や執着を繰り返せば、心の支えとなるものが自分以外のものとなり、逆に不安定で落ち着かない人生になってしまう。安定した人生なんてどこにも存在しないが、不安定な人生はそこら中に存在する。そのひとつが他人や外部のものに依存する人生である。

世の中の物事は思い通りにいかないことばかりだ。でも、この世で唯一思い通りになるものがある。それが自分の意思である。依存はその自分の意思を他人に受け渡す行為であり、人生の船の舵取りを他人に任せている状態なのだ。

依存と執着をしていると視野が狭くなってしまう。今あなたが依存しているもの、執着しているものは、実はあなたにとって必要不可欠なものではない。あなたに本当に必要なのは、自分の人生を生きることと精神的な自立である。

不安な感情をなくし、依存と執着をやめるには人生の意味を他人ではなく自分の内側に見つけなければならない。自分の内側で意味を満たすことができれば依存と執着の感情は消え去り、人生を自分の思い通りに自由に生きられるだろう。


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