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本当につらいときに寄り添ってくれるのは「芸術」である。

会社に勤めていたときは、仕事が終わった後の解放感がなによりも好きだった。特に予定があるわけでもないのに週末の夜は気分が高揚するし、いくらでも夜更かししてもいいという自由だけが生きがいだった。束縛されればされるほど、そこから解放されたときの爽快感は格別である。

満腹の状態で食べるミシュランの料理よりも、腹ペコの状態で食べるコンビニおにぎりのほうが美味しい。喉がカラカラの状態で飲む冷たい水は、ロマネ・コンティよりも美味しい。こうした感覚は幸せを感じるためにとても大事である。そこにこそ人間の本当の幸せがある。幸せは掴むものでも手にするものでも、なるものでもない。ただ気づくものなのだ。

幸せを感じるための感受性

何気ない日常生活の中に潜む、誰もが見逃しがちな幸福の源泉をいかに見つけることができるか。視線は右から左へと即座に切り替わっていくが、幸福はどこにも行かずにそこにある。幸せを感じられないのは感受性が幸せを認識できていないからだ。

いつも通りの日常の中にも、よく目を凝らせば何気ない幸せが落ちていることに気づく。毎朝のコーヒータイムに幸せを感じる人もいるし、一息ついてソファで横になるのが幸せな人もいる。太陽が照らす自然の風景に癒される人もいれば、道端に咲く花や小川の流れる音、どこまでも広がる青空が癒しになる人もいる。

一見、何でもないようなことでも視点を変えて捉えることで、平凡が幸せへと形を変えていく。「なんでもないようなことが、幸せだったと思う」と歌う歌詞は、まさに平凡な日々の中に幸せの形を認識しはじめた状態である。もっとも寂しい人間というのは、きっと平凡の価値がわからない人なのだと思う。

自分なりの芸術を見つける

人は目には見えない抽象的なものを具体的に捉えることが苦手だ。具体的なものを抽象的に変換することは得意でも、はじめから目に見えていないものについて様々な考えを巡らすのが苦手なのだ。そして、抽象的なものを具体的なものに変換するのが得意な人間がいる。それが「芸術家」と呼ばれる人種である。

ニーチェは芸術的行為に没頭することこそ、不合理と矛盾に溢れる世の中で強く生きていくために必要だと述べた。詩を書くことや写真を撮ること、絵を描くことやモノづくりをすることなど、自分にとって「芸術」と捉えるものを生み出す行為に没頭すること。それが人生を強く生き抜くために必要なのだ。

何を芸術と捉えるかは人それぞれ違うだろう。自分が「芸術的だ」と感じるものでも、他人からすればガラクタに見えるかもしれない。逆に、他人が「これは芸術的だ」と言うことでも、自分から見ればまったく価値のないものに見えることもある。「芸術」という言葉の定義は人それぞれだからこそ、自分なりの芸術を発見することが大事なのだ。

自分なりの芸術を発見し、0を1にするように創作に没頭する。ダラダラとYoutubeを見るのもたまにはいいけれど、それでは企業が提供する受動的娯楽の世界から一生抜け出すことはできない。自分で創作するのは能動的な娯楽だ。受動的なものにはお金がかかるが、能動的なものにはお金はかからない。

批評家と芸術家の違い

マニュアル化された単純で、何の迷いもない作業感的な日常を生きた先にたどり着くのはどこなのだろう? 気の沙汰とさえ思えるような芸術的没頭の中で生きる人たちと、現状維持に時間を費やす人たちとの差異は人生のどの段階で顕在化されるのだろう?

SNS社会は一億総批評家時代の到来をもたらし、芸術に没頭するのではなく芸術を批判する人たちで溢れ返っている。なにも生み出すことなく、ただ他人が生み出した芸術に対して批判的な意見を飛ばし、匿名という安全地帯から石ころを投げつけてジャイアンのように威張り散らす人が跋扈するのが令和という時代だ。

なぜだかわからないけれど、現代ではソファに横になりながらスマホの上で指を動かす人間のほうが、時間と頭と身を削って必死に手を動かす人間よりも偉く振舞うことが多い。そんな輩をここでは「大人ジャイアン」と呼ぼう。

大人ジャイアンは自分の時間を投資して何かを生み出すことはしない。なぜなら他人が生み出したものを奪うほうが楽だからだ。大人ジャイアンは芸術的行為に没頭することはない。なぜなら自分で作るよりも他人のものを批評して優越感に浸ることのほうが楽しいからだ。大人ジャイアンは決して身近な幸せには気づかない。なぜなら他人を貶してドヤ顔をすることが唯一の幸せだからだ。

人生を芸術に変える

一週間という短い周期を、何度も何度も死ぬまで繰り返していくのが人生だ。まるで薄氷の上を歩いているような時代性の中を必死に生き、不合理と矛盾に目をつぶりながら芸術に没頭するのが人間だ。これは実体験から言えることだが、「芸術」という逃げ場があると本当に気が楽になる。

仕事も家族もプライベートもすべてうまくいかなくなったとき、芸術だけが自分にそっと寄り添って力を与えてくれる。その芸術という幸せを認識するためにも、日頃から感受性を鍛えておくことが求められる。芸術と感受性は切っても切れない関係だ。感受性がないと何が芸術的なのかわからないし、芸術は感受性がないと生み出せないからだ。

人生の中で感じる痛みこそが、自分が現実の世界に生きているのだと実感させる。疲労感の先にある充実感こそが、人生をモノクロから色づく世界へと塗り替えてくれる。そして芸術こそ、この世界の中で「もう少し長い生きしてもいいかなぁ」という強い気持ちを生み出してくれる。

海は潜れば潜るほど深くなる。本は読めば読むほどわからなくなる。芸術もそれと同じだ。一度芸術という海に飛び込んだが最後、芸術なしでは人生は成立しなくなる。音楽を芸術だと捉える人間は、いつか自分で音楽を作り出す。写真が芸術だと感じる人間は、いつか自分でさまざまな写真を撮りだす。本が芸術だと思う人間は、いつか自分で何かものを書き始める。

自分の中の芸術的な感性を無駄にしてはならない。物事を芸術的に捉える感受性こそ、自分の人生を芸術そのものに変えてくれるのである。


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