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尼僧と高雄と百合の、夢の話

 夢というのは不思議なもので、眠っている間にぬっと訪れては去っていく。くだらない夢しか見ない夜もあれば、全く夢のない眠りもある。しかし時おり壮大で奇想天外、そして示唆に満ちた夢がまるで天啓のようにふと降ってくる夜もある。そんな時、私は言葉にして書き留めずにはいられない。これまでも台湾と中国との戦争が始まった夢や、編集者との打ち合わせに遅れる夢をnoteで書いたことがある。

 昨夜もそんな夢を見た。
 夢の中で、何故か高校の制服を着ている私は、鬱蒼と茂る森の中にひっそり佇む古寺に住んでいる、とある高齢の尼僧を訪れる。尼僧は小説家で何冊か本を出しており、私たちは知り合いで文友らしく、久しぶりに再会すると取り留めのない雑談を始める。彼女は「アイスティア文学賞」という、アイヌ語で書かれる小説作品を募集する文学賞が近々開催されることや、実は漢詩漢文を募集する文学賞もあることに言及した。尼僧は漢詩漢文にも通じており、自分が最近書いた漢文を私に見せた。

 ふと尼僧は、私が着ている制服にある「高雄」という文字の縫い取りを見かけるとしばし黙り込み、追想に耽っている様子だった。どうしましたか、と私が訊くと、彼女は徐(おもむろ)に昔の経歴を私に語り出す。

 尼僧は若い時、男と結婚していた。時代を逆算すると、1930年代のことだったと思う。ある日、夫は当時日本統治下の台湾の高雄に赴任し、彼女も夫に同行して高雄に渡った。
 高雄で、彼女はとある女性に出会い、二人は激しく愛し合った。夫がいない時に男装して密かに家を抜け出し、その女と逢瀬を繰り返していたらしい。二人はずっと一緒に暮らしたいと願ったが、しかし尼僧は名家の出なので、駆け落ちという一族に泥を塗るような芸当は到底できるはずもなく、二人はついに結ばれることがなかった。暫く経つと、彼女は夫とともに日本へ帰国し、高雄の女に対する想いを押し殺し、夫との結婚生活を耐えながら生きることとなる。

 中年に差し掛かった頃、彼女は出家を決意して夫と離婚し、以来、仏に仕える尼僧の身となった。それと同時に小説も書き始めた。『花物語』や『わすれなぐさ』のようなタイトルの小説を何冊か発表したが、一番評価が高いのはデビュー作だった。その小説の中で、彼女は自分と高雄の女との出会いと相思相愛の記憶を下敷きにして物語を綴った。
 ただ、小説では二人は苦難の末に駆け落ちに成功し、女二人で幸せを手に入れるが、現実の彼女は古寺の中で静かに生涯を終えることを選んだ。つまり彼女は実らなかった若かりし頃の想いを小説に託したのだ。その小説は集英社文庫から出ているが、既に絶版になった。

 長い話を語り終わると尼僧は疲弊し、憔悴が表情に如実に表れた。それもそのはず、彼女はもう百歳前後の高齢者なのだ。もうすぐ寿命を迎えることを悟ったのか、彼女は床に横になり、穏やかな微笑みを浮かべながら死の到来を待っていた。
 私は彼女に抱きついて号泣した。彼女の話に感動したし、そんな哀しい記憶を抱える彼女がこのまま世を去るのが悔しくて仕方なかった。すぐ傍にぬっと現れて彼女を連れ去ろうとする冥界の使者らしい人影に向かって、私は何度も「待て!もう少し待て!」と叫んだ。そして息も絶え絶えな彼女に向かってしきりに何かを語り続けた。彼女を何とか現世に繋ぎ止めようと必死だった。

 しかしそれは徒労だった。暫く経つと、彼女は静かに息を引き取った。

 私はやはり悲しくて悲しくて仕方なく、尼僧を見送った後もひたすら泣き続けた。何度拭っても涙はとめどなく流れ出た。途方に暮れる私は、せめてこの話を誰かに伝え、この哀しみを誰かと分かち合いたいと願った。そこで男装や女と女の歴史について資料を集めている牧村朝子さんのことを思い出し、彼女に電話しようとした。

 夢はそこで終わった。目が覚めた後、自分が本当に涙を流していることに気付いた。

 夢の中の要素を冷静に整理してみた。『花物語』や『わすれなぐさ』は言うまでもなく、吉屋信子の小説である。そして私が実際に交流を持っている高齢者の女性の文人といえば、渡辺みえこさんくらいなので、両者のイメージが合体したのだろう。愛し合う若い女の子二人が駆け落ちするというイメージは、韓国映画『お嬢さん』から来ているに違いない。日本統治時代の台湾という時代設定は、台湾の百合作家・楊双子の小説『花開時節』から来ているのだろう。牧村朝子さんとかアイヌ語とか漢詩漢文とか冥界の使者とかが出てくるあたり、李琴峰の交友状況や関心や世界観が反映されている。古寺に住む尼僧という設定は、あるいは中山可穂『愛の国』から来ているのかもしれない。
 それにしても、なんて壮大な夢だったのだろう。時代背景は若干怪しいところもなくはないけれど、これで一つの小説ができそうである。「百合、高雄、アイヌ語」という三題噺、みたいな。いつか本当に書くかもしれない。

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