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『祝祭と予感』とアカデミア

恩田陸(2019)『祝祭と予感』を読んだ。どうやらこの本は『蜂蜜と遠雷』の続編(スピンオフ集?)に当たる作品だったらしいが,『蜂蜜と遠雷』は未読の状態で読んでしまった。

本記事の以下の内容は,『祝祭と予感』を読んでわたしが自分の経験を踏まえて共感した点や思ったことについてダラダラと綴りますが,ネタバレを含むので未読の方は読んでから読んだ方がいいかと思います。

恩田陸の著作は中学生ごろからたびたび読んできた。とても好きな作品もあれば意味がわからない作品もあって,個人的には当たり外れのある作家だと思っている。雰囲気を描くのはとても上手い。ただ,後半になるにつれて尻すぼみになる長編や,盛り上がりどころが当時の私にはわからない短編なども多い気がしていた。大学・大学院に進学し文芸書を読む習慣が消えかかっていて,久しぶりに恩田陸の本を読んでいるのだが,その中の一冊が『祝祭と予感』だった。

『祝祭と予感』はピアノや音楽で生きていく天才たちの話なのだが,わたしはこの本にいたく共感してしまった。

確信があるが,もし中学生のわたしだったら,こんなに感情が動かされなかったと思う。

一番印象に残っているのは,ピアノコンクールのパーティーにて,日本人の三枝子という女の子が西欧の価値観中心であるクラシック音楽世界で「生きていく」という決意を当たり前のように吐露するシーンだ。彼女はパーティーで自身が着用した着物を「戦闘服」と言い切り,天才少年と呼ばれる音楽家だが社交的ではないナサニエルに対して次々に天才がやってくるのだから天才少年といえどパーティーの隅にいて自分を売り込まずにいてはダメと諭す。

ナサニエルと三枝子はこのパーティー以前はお互いに対して良い印象を抱いていなかったのだが,ナサニエルはこのシーンで三枝子と本当の意味で出会ったとみなしている。目の上のタンコブだった人の真摯さに気付き,ナサニエルには一気に三枝子が魅力的に見えた。

こういう風にギャップに惚れた経験わたしにもある〜,という単純な共感もあったのだが,このシーンの背景・セリフ全てが研究者にも当てはまるなと思い,とても共感した。

まず,クラシック音楽と同様に,研究も(特にわたしの分野では)西欧が中心的であり,英語が母国語ではない日本人は不利である。しかも,わたしの分野では女性はマイノリティーとして扱われている。

さらに,研究ができる人・すごい人というのは毎年大学院に入ってくるし,毎年査読雑誌には次から次と有力な若手研究者の論文が掲載される。天才はどんどん現れるし,若手ですごい人みたいな立ち位置にいたとしても何かを成さなければ(成し続けなければ)すぐに淘汰される。

学会や査読の場は戦場だし,研究会や懇親会のパーティーでさえ「戦闘服」を纏う必要がある。

こんな意味がわからないほど厳しい環境なんだから逃げ出せばいいのに,そこで「生きていく」ということを決意できていて,実際にアカデミアで生きているすべての人を私は尊敬している。この決意ができるだけで本当に才能があると思う。なんというか,研究の色んな各パートで要求されるスキルは十分に持っているけど「生きる」決意がない人は,どうしても生きていけない世界だから・・・・

ナサニエルが三枝子に対して抱いた感情をわたしも周りのすべての業界人に対して抱いているということに気づかせてくれて,素晴らしい読書体験だった。

そして,当時は意味がわからなかった恩田陸のいくつかの著作も,今読み返したらまた違う感想を抱くのではないかと思う。

#振り返りnote

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