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自由に自分の命を終わらせる権利

いつの頃からか、無条件安楽死を求めるようになりました。
私たちに基本的人権があるように、自由に自分の命を終わらせる人命権利があると思います。
SF小説のような設定ですが、ある年齢に達したものは誰でも、自らが人生を終わらす最終決定をできる権利がある世界を想像します。

家族の意見にかかわらず、自らの判断能力も問わず、自分が死を選択したら、その選択を尊重して安楽死できる制度があると、どういう社会になるのでしょう。
コンビニでバクバク食べてる人を止める権利は誰にもありません。コンビニ食を食べるのは緩やかな自殺と言われます。飛び降り自殺のような即自殺は反対しながらコンビニに立ち寄るのは、衝撃度の違いなだけかもしれません。

さやかさんのとこのアシュタールさんは、よく「もっと死について理解する必要があります」と言われます。いつも考えます。
私はいつ死んでもいいと思っています。死に方が痛くなければ、それだけです。
人生に絶望があるわけでも目標がないわけでもありません。でもこの世にこだわりはありません。
望んだことはいろいろ出来たし、それなりに味わえたし、それなりだと知りました。
大満足ではないですが、未練もないです。
ここで想像します。無条件安楽死制度があったら、私は実行するのだろうかと。
多分まだしないでしょうが、だいぶ気が楽になるような気もします。いざとなったら死を選べる、なんか安心感があります。

特に若い世代は、夢があるけど諦めるとか、現実を感じて妥協するとか、今の社会ストレスは意にそぐわないことをやっていることに不満が溜まることなのでしょう。
いざとなったら死ねるならば、自分のやりたいことだけをやれる社会になるのではないでしょうか。
夢破れて死を選ぶ人に対し、実親や家族はどうなるでしょう。想像するだけで嫌な気分になる人も多いかもしれません。でもそれは、生き残ることを原則とした社会に生きているからこそ生まれた思い込みかもしれません。
自分のやりたいことだけやれる社会であれば、むしろ誰も安楽死を選ばないかもしれません。

深層心理の世界では、病を愛して自ら病になる、依存心の歪みが病気になる、そのように分析されます。
死を選べない社会だから、病気という手段を使って、潜在意識で死へ向かおうとしてるのかもしれません。
死まで行かなくても、生きてる実感が欲しくて、肉体の病を経験しようとしてることもあるでしょう。
自傷行為は当然に死にたいからではなく、生きたいからなのでしょう。

いつでも自分から死を選べる社会なら、自分で肉体をいじめず、何よりも生き生きとした社会になるかもしれません。
ただ肉体の自然崩壊があり、意思どおりに生き、意思も肉体をも在るがままに受け入れる。
死を選べるだけで、死から解放されたような気がします。

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