#10 命を食べるということ

こんにちは。レベッカです。
今日は命を食べるということについて書いていきます。

今日、久しぶりにイカを食べました。お魚屋さんに入った時に、ふと食べたいと思い、購入しました。自宅に帰って、そのイカを口に運んだとき、目を瞑ったイカと目が合った気がしました。その瞬間に、ずっと昔に参列した叔母の葬式の時に見た、眠ったような叔母の死顔が脳裏に浮かびました。それぐらい何とも言えない穏やかな表情に見えました。そして、「なんで私は動物性の食品を食べなくなったのだろう」と考え直したいと思いました。今は3つの理由があるかなと思っています。

一つ目は、自分では動物を殺して捌くことができないからです。もし、自分が食べるお肉を自分で切り出しなさいと生きた動物を差し出されたらどうするだろうか。そう考えたときに、私はその動物を殺すことができないと思いました。じゃあ、自分でスマホを作れないからスマホを使わないのかというとそうではないです。それは技術のハードルだと思います。一方で、動物を捌くということは技術ではなく、倫理や価値観のハードルによってできないということです。だからこそ、お肉に比べ、お魚はいただくことができる気がしています。

二つ目は、罪悪感を感じないためです。どんな食べ物も、命をいただいています。だからこそ「いただきます」を言います。感謝している気持ちを表す言葉だと思います。でも私は、動物性の食品をいただくときに100%「ありがとう」の気持ちだけで食べることができないと感じています。罪悪感がセットでついてきます。それは、私の心を少しずつ引っ掻いていくような気がしています。だからこそ「あえて」食べる必要はないのではないかなと思っています。

三つ目は、自分を守るためです。加工肉などの摂取による様々な健康被害が、公式的に発表されています。自分の健康や体型を守るために、何かこだわっていると「自分を大切にできている」と感じることができます。それが自己肯定の一つの要素でもあるのかなと思っています。

何を食べ、どのように食べるか。それはとても繊細でパーソナルなことです。だからこそ、否定することもされることも、あるべきではないと思っています。主観的なトピックだからこそ、自分の食生活や価値観を客観的に振り返ると気付かされることがたくさんあります。

今回も読んでくださり、ありがとうございました。
また別の記事でお会いしましょう。


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