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帰省の思い出と、希死念慮について考えた

「墓参りに行かないとなぁ」となんとなく考え始めてしまって、いつの間にかそのことで頭がいっぱいになっていたので、3年ぶりに山口県の実家に帰省することにした。

私が住む福岡の博多駅から山口の徳山駅までは新幹線で40分ほどで行くことができる。
最初乗ろうとしていた新幹線には、毎度のことながら準備が間に合わず、今回は3本くらい逃した。もう山口に行くのをあきらめようかと思うくらい準備が辛かった…。

そんな小さな壁を乗り越えて、新幹線に乗り、無事実家に到着した。

久しぶりの実家はインテリアや照明がところどころ変わっていたが、雰囲気は中学生まで住んでいた時のまま変わっていなかったのでほっと落ち着くことができた。

仕事が休みだった父が一緒に墓参りに行ってくれた。
久しぶりに訪れたお墓がある山は、前よりも木々が生い茂っているように感じたし、野犬が多い地域なので、「お供え物は持って帰るように」と注意書きがあるなど、未開の地にやってきた感が強かった。インドに行った時を思い出した。
しかも蚊が多い。10分ほどの滞在で虫よけスプレーをかけまくったのに、3か所は刺された。許さん。

急にシリアスな話になるが、私は自ら死のうとしたことが3シーズンくらいある。
①生きていても楽しいことが無い(小中学生)
②母親と馬が一生合わない(大学生)
③会社と合わなさすぎる(ベンチャー2社目の時)
生きる理由人間関係仕事と、一丁前に人間の悩みの大方を履修していて笑える。

今だからこそ「人間だれしも死んでしまいたいときくらいあるよね」くらいに思っているが、死にたい全盛期の時はそんなこと微塵も考えられない。
最近になってやっと今までの異様な生きづらさの原因は、発達障害だと発覚して納得できた。その発見のおかげもあり、他の人には当たり前にできることが自分にはできないけど、また逆も然りと、完璧主義をぶち壊したら楽になった。
どうしても難しいことは周囲の助けを求めると、逆に信頼関係が深まることも分かった。

一緒にライブに連れて行ってもらうほど仲良くしてもらっていた前職の上司に、ずっと心の奥に希死念慮(※生きたくないと考えたり、死ぬことを想像したりすること)があると告白したときに、「私も今消えたら生きているより楽だろうなと思うこともあるけど、残した家族や友達のことを考えるとまだ死ねないと思う。今生きているのも偶然じゃなくて、亡くなったご先祖さまとか身近な人が守ってくれているからかもよ。」と、上司が最近読んだらしい「死」に関する本を勧めてくれた。

今の肉体は借り物であって、死ぬときに返し、魂がまた他の新しい肉体に宿るみたいな輪廻転生的なこととか、肉体から離れた魂も生きている者の助けをしていて、、、みたいな内容だったはず…。

その本はなんだか聞いたことがあるような内容でパッとせず、ほとんど記憶に残ってはいないが、上司の言葉は鮮明に覚えている。
こんな強い人でも「”まだ”死ねない」って、死寄りの生で生きているのが印象深かった。
「こんな赤裸々に伝えてくれる上司の言うことなら間違いないだろう。ご先祖さまに日頃の感謝を伝えなければ。」と墓参りへの想いが強くなって今回の帰省に繋がったのだ。

墓参りが良いことであるお示しみたいなものは特にないが、「行かないと!」と思っていたモヤモヤは晴れた。

「必死に生きないと」ではなく、「まだ死ねない」くらいの気持ちで生きていて良いと気づかせてくれた上司には、私のご先祖さまと同様に守ってもらったと感じている。

前職場を辞めて以来、上司には会えていないが、いつかまたどこかで良いつながりが生まれると良いな。
ちなみに今はその上司が紹介した会社で働かせてもらっているから近況報告の連絡でもしてみよう。

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