「道徳」という謎の時間を思い出す。 放送大学:発達科学の先人たち「デュルケム」の章 感想
発達科学の先人たち、第6回はデュルケム「道徳教育論」。
今までの授業はこちら。
*「発達科学の先人たち」を学ぶ
*植物にも心がある!? 「アリストテレス」の章 感想
*まるで呪いの書。 「貝原益軒」の章 感想
*動物の表情についての分析が面白い。「ダーウィン」の章 感想
*“英雄と神々の時代”というワードに目が眩む。「ヴント」の章 感想
デュルケムの時代
教育制度から徹底した宗教の排除が行われた頃で、これ自体は素晴らしいと思うんだけど、今までカソリックに頼ってきた規範が失われてしまい、犯罪などが増加の傾向に…。
デュルケムが活動したのはそんな時代だったようです。
実証主義
次に彼によって体系づけられたという実証主義について語られます。
神中心の考え方より、だいぶしっくりくるのですが、話が進むとだんだん雲行きが怪しい方向へ。
神に代わる存在かのような「社会そのもの」が出てきて、ちょっと背筋が寒くなる。ボーグ(新スタートレック)やサイバーマン(ドクターフー)を彷彿とさせて恐ろしい(いや、この連想は私だけだろうけど)…。
もちろん社会集団は大切だし、神から離れる出だしは良いのに、どうしてこう極端なところまで行っちゃうんでしょうかね。
本筋と全く関係ないけど、ボーグとサイバーマンについてはこちら。↓
どちらも出会う相手を強制的に自分の集団に同化させてしまう(個がなくなる)恐ろしい種族。
道徳の時間
さて、気を取り直してデュルケムの「道徳教育論」。「社会」を個の中に形成するための道徳教育ということでしょうか。
小学校で道徳の時間ありましたね。
(デュルケムの言うような社会集団への愛着らしき内容はあった気がするけど、規律の精神についてはあったかなあ…戦後だからないかも?)
テストがあるわけでもなく難しいことは特にないんですが、なんとなく居心地の悪い時間でした。こういう答え(良い子の意見)を先生は求めているのだろうというのがわかるので、本当に思っていてもいなくても、子どもながらになんだか白々しい。そして、先生もそこをわかってこちらの白々しい意見を聞いてる気がして白々しさが倍増します。なんだか変な空気の時間。
さらに高学年になると、先生その人が何かにつけて自分のクラスの子どもをいじめる人物で、私はターゲットの一人になっていました。道徳の時間はいつも内心、あんたが道徳を語るのか、と思っていて、そうなると白々しいどころか嘘くさい。
この白々しさや矛盾を抱えつつ、それでも芝居のような授業をやっておけば何かを得られるものだったのか、あまり意味がなかったのか、今もってよくわかりません。
要するに小さな子どものうちに暗示によって道徳観念を植え付けるということだと思うんですが、これがよいことだとしても、それを行うのが前述の先生のような道徳心なんて持っていそうもない人物だとしたら。内容どころか話す言葉ひとつひとつが問題になるかもしれない。子どものほうで自分なりに判断できるまでに達していればまだ良いけれど、低学年ともなると空恐ろしいことこの上ない。
そんな考えも頭をよぎり、教材にはデュルケムの考えは批判にも晒されていたとあって、ホッとしました。もちろんデュルケムの説いた当時の道徳の考えと私が受けた道徳教育の方針は違うものだったとは思いますが。
今の道徳ってどうなっているんだろう?と思ったら文部科学省に道徳教育アーカイブというのを発見。なかなか立派そうな内容がならんでいて、中にはいじめについての授業もあるけれど(それでいじめがなくなったらどんなによいだろうか!)、やっぱり誰(どんな人)が指導するのかって大きい気がするなあ、難しい。
余談
この道徳の時間、覚えているのは最初に「みんななかよし」というテレビ番組を見て、それについて意見を言うとか、簡単なプリントを配られて、そこに書かれているストーリーを題材にするとか(こっちはうろ覚え)が定番だったような。
道徳の時間はイヤだったけど、みんななかよしのテーマソングは短い中にストーリーが埋め込まれていて好きでした。ここに出てくる「知らない子」は一瞬の登場だけど、なかなかの人物に思えます。口笛吹いて空き地へ行った、とか、今考えるとかなり昭和な光景ですね。