見出し画像

あえて「嫌い」の話をする

嫌いなことより好きなことを語った方が、平和的で心地よく話ができる。
わたしも基本的にそう思っているが、綺麗事抜きで人の価値観を一番表すのは「これはイヤ」という感覚ではなかろうか。

だから、たまには「嫌い」という切り口から、価値観について語ろうと思う。


ある人は、授業中に後ろで騒ぐような「ナメた学生」を嫌っていた。それから、差別的な言葉、先入観、ステレオタイプについて常に疑問を持っていた。学問に対してとても勤勉かつ意欲的な学生だった。

もう一人は、軽薄で中身のない思考を嫌っていた。哲学の修士課程を出ていて、芯のある批評を好んだ。テレビか何かで内容の薄い「ヒョーロンカ」を目にし「幼児用プールより浅い」と顔を背けて画面を切っていた。

三人目は、露骨に表しこそしないけれど、「平凡で冴えない自分」を嫌っていた。自分の生き方を否定こそしないものの、ときに諦観めいた言葉を口にした。

わたしはそれを見ながら、「この人は、こういうことを嫌うんだな」と、フラットに受け止めていた。彼女らが本当に大切にするものが何なのかは、こうしたやり取りから見極めていた。


そしてわたしは、何よりも不誠実を嫌う。
善悪そのものではなく、誠実であるかないか、だ。たまたま、善なる(とされる)ものが、誠実であることが多いにすぎない。
二枚舌、駆け引き、騙し合い、ウソ。
生きるため、身を守るため、生業のためには時としてそれが必要だろう。自分も、全く使わないと言えばウソになる。
処世術としての優しいウソも存在するし、それを否定はしない。生きている限り誰かと利害は生じてしまうしぶつかることもある。そこをうまく丸く切り抜けるため、自分可愛さ100%ではなくて、「どうやったら全体のダメージが少ないだろうか?」と考えに考え抜いた上で、真実を巧みに覆い隠すのは、ある種の誠実さを感じる。周到な準備と周辺への配慮。こうした背景があるのなら、ウソもひとつの手段だろう。
でも、いつもそんなことはできない。

対立する両者の言い分を聞くことがある。中立な判断に資するため、なるべく先入観を排し、当事者だけではなく、幅広に情報を集めて、チームで話し合いながら真相を探る。そうしていつも思うのは、ウソはやがて見抜かれるということだ。特に、自分可愛さでついたウソは目につく。
確かに人の心を全て見通すことはできない。だけど、同時に何かしらの痕跡も残っている。辻褄の合わない点、微細な綻びを見つけるたびに、全て覆い隠すこともできないのだな、と感じる。
そんな経験を積んでしまったゆえ、そういう綻びには普通より敏感な体質になったし、保身100%のウソをつかれると逆鱗をぶん殴られた気分になる。幸い、そのようなことは滅多に起こらないのだけど。
逆に言えば、保身全振りのウソをつく、それさえやらなければ、わたしに嫌われることは無い。

誠実というのは時として恐ろしい。
自分に不利なこと、嫌なこと、弱い面、悪い面を真っ正面から受け止めなければならない。つらい、キツい、逃げたい。それも偽らざる本音だ。不誠実は嫌いだけど、誠実たれ、の実践には、自分はまだまだほど遠い。弱いなと思う。
でも、傷を受けて倒れる度に、誰かが手を差し伸べてくれる。その人の肩を借りながら、やがてもっと強くなって、次はこの人を守れるようになろう、そう思いを新たにする。
カメ以下の歩みかもしれないけど、少しずつ少しずつ。
昨日の自分より強くあれ。
それが、わたしなりの誠実さ、だと思っている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?