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倫理観の基盤が腐る

先日,高校生がカンニングをした後に自殺してしまう事件が発生した.この事件が徐々に広められるとSNS上でも意見が活発になった.しかし内容は亡くなった生徒への批判で学校側を擁護する意見が目立った.中には先生になる人が減る理由だ.と全く幼稚としか言いようがない謬見もあった.

カンニングと教師の対応に目線が行き,生徒の自殺という最悪の結末を見えていないのではないかと心配になる.

「死」というのは人間において最後を表す言葉である.これを正当化させる事は決してできるものではない.

安倍晋三元総理大臣の襲撃事件で山上被告の減刑運動や正当化させる意見が寄せられたが,これらの粗忽さと傲慢さは絶対に許してはいけない.人を殺した事実を正当化できるはずがない.思想やバックグラウンドを持ち出して死ぬべき存在と述べた輩の無知蒙昧さは恐ろしい.

今回の事件に関しては思想が関係しているわけではないがバックグラウンドとしてのカンニングという要素が原因にある.カンニングをしてしまい,教師から叱責される.その後の全教科0点と自宅謹慎8日間,写経80枚,反省文の作成は正しい対処だったのかは議論の余地があるだろう.

しかし学校の対応は謝罪ではなく「我々は自殺に追い込んでいない」という対応をとっている.記事の内容になってしまうが「重く受け止め今後の指導に気をつける」はなんとも軽薄さの隠せない主張だ.

ここは自分たちの行動が間違っていたと表明し,謝罪するところから協議を進めていくべきではないか.生徒が亡くなっている以上,教師の叱責の状況や対応が間違っていたと認めざるを得ないにも関わらず自殺に追い込んでいないと主張するのはおかしな話である.

色々な状況が重なる事で自殺という最終的な結末を選んだ事が事実であり教師だけでなく教育の対応システム全般を批判すべきである.

これは学校という今回の事件の現場とSNSというネットで繰り広げられる両方の倫理観を批判したものであって一方の問題では解決できない.まず重点におくべきベクトルが間違っている事と「死」以上に優先される主張はないという事を理解しなければならない.

キリスト教の教えに則るならば「汝、殺すなかれ」である.ヒトラーも(実際は自殺)東条英機も多くの人を殺しても殺していい理由にはならないのだ.それほど「死」という概念は重いもので人間による操作は許されてはいけない.

近年のSNS上における「死」への軽薄さは幼稚であり批判されなければならない.しかし実際に起こっているのは同感の嵐であり批判ではない.死を望む同意などはあってはならないはずだ.今いかに必要とされているのは倫理観を正せるほどの批判と理解である.常識であったはずの理解は今では非認識における軽薄な単語になってしまったのではないかと実に心配である.

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