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遊ばれる脳

地球が誕生してから約46億年もの月日が経った.酸素の出現により生物が生きれる環境ができ、約500万年前に人類は誕生した.46億分の500万年だから、人類は地球史の0.01%を刻んでいるわけだ.

そう考えると人類なんか地球からしたらただの脇役にしか過ぎない.

そう考えても仕方がないので人間は皆人類史を基準に考えるのだが,その人類史の始まりの多くは縄文時代(日本の場合)の約1万3,000年前からである.

別に不思議な事ではなく,ただ昔になるにつれて情報が少なくなり勝手にスタートを決めていることに過ぎない.

今のZ世代に聞けば分かるが「人類初めの動物は何か?」という答えは『サヘラントロプス・チャデンシス』と習っている.しかし,この猿人が発見されたのは2001年の事である.すると2001年以前の人々は違う名称で習っているわけで,それが『アウトラピテクス』である.

人類の起源などただの人間の脳の中での出来事に過ぎないのだ.誰一人起源は知らない.もし今後新しい発見が起こればさらに起源は伸びる事になる.

ダーウィンの『進化論』も似ている.実際には猿人から人間になるまでの過程を見てきた人はいない.そしてデータも存在しない.

進化論は発見されたデータや今の技術などによって作り出された幻想なのだ.想像であり絶対性は存在しない.

「ある日急に....」というシーンは想像しづらいが新たな発見により進化論が否定される可能性は十分に存在する.(誰も証明できないため崩れることのない主張に違いないが)

要は今の歴史も主張も人間の脳によって作り出された幻想なのである.

歴史が絶対性と述べる人がいるが間違っている.「データとして残っているじゃないか」というが,そのデータは人間の手によって記録されたものであり改竄もその人のベクトルによ左右も十分に考えられる.そのため歴史も人間の想像の中の話である.

今の社会に存在する話は全て人間中心であり,人間の想像するものである.

実際に正しいとされていた事は後々になって批判される事がある.それがロボトミー技術であったり,大きな話でいけばニュートンのエネルギー法則に繋がっていく.

今回のテーマである「遊ばれる脳」は今の事柄を述べていてる.

しかし全てのデータを信じないというのも無理な話である.歴史を否定する程度であれば問題ないが「データがあるが絶対性はないから違う」というのは社会では認められない.

だから我々は多分で生きている.「多分正しい」「多分違う」そんな感じで生きているのである.

だが我々は普段意識的な決定の時にこの判断を上手く行えていない.「これにはデータがある」と言われてしまえば「そうだ」と認めてしまう.他人の上手い口車に乗せられて嘘の情報だとしても疑わず内に入れてしまう.

しかし今のデータの根拠は人間の脳が作り出した想像である可能性がある.と思えれば情報への接し方にも変化があるはずだ.

ノーベル医学賞を獲得したロボトミー技術はそれの最たるものである.精神疾患のある患者に対し脳の前頭葉の一部を取り除く手術は精神病を治す上で最も最短で安全な技術であると評価されていた.

最高の技術に思われていたが,時間が進むにつれて技術への副作用の懸念が出てくる.発表当初も副作用への懸念はあったものの人類が大きな壁としていた精神病の治療は巨大なもので目を瞑っていた部分もある.

しかし,ロボトミー行った患者の多くが精神病から解放されたものの感情を失い喪失感に包まれたのも事実である.

それにより今ではロボトミー手術は禁止され行う医者はいなくなった.当時の医師からすればロボトミー手術を疑う余地のない治療だったが、情報が増えるにつれて禁止されるまでの危険行為になったわけだ.

常識が大きく覆された極端な例ではあるが,我々の知っている「常識」と言ったものは情報が蓄積されるにつれて「非常識」になる可能性は否定できない.

情報自体に変化はないが時代背景によるパラダイムシフトは起こり,諸行無常な存在である.

私が伝えたいのは「情報を疑わなければならない」ということに直結するが,今回は少し理論的に話してみた.この理論を否定しながら読んでもらえれば結構なことだし,今後も情報に対して騙されないようにしてもらいたい.

認知バイアスの恐怖

ここまで読んでくれた皆さまは理解してくれると思うが,現代では多くの場面で情報のバイアスが生じてしまっている.

特に1月1日に起きた地震や飛行機事故の数々も同様である.

被災された皆さま,飛行機事故でお亡くなりになった関係者の皆さまにご冥福を祈る.

しかし当事者以外の“部外者“が「最悪の一年だ」と言っている現状には許せない.というか愚かであり,そういう人たちが嫌な空気を漂わせる.

今回の事故に関しては1月1日という数字には意味がない.ifの話ではないが,今年は最悪だという状況は1月に起こらなければならないだろう.

1月中に偶然重なった悲劇が人々の中に埋め込まれてしまい,「今年は最悪の年だ」と認知してしまう.

まさに遊ばれているのである.認知バイアスとも呼ばれるこの状況は「そんなことはない」と思うしかない.

その一つの考え方だけで未来は大きく変わる.「この問題は偶然じゃないか?いつも通り楽しもう」と思えればマイナスの感情は生まれてこない.

今年の初めは強く思えた.

情報に対する懐疑の気持ちと情報を受けた後の懐疑の気持ち.

全ては脳が発端とされる問題である.自分たちでどうにかするしかない.

「今年もいい一年にしようじゃないか」と始める一年にこそ価値は感じられるのではないだろうか.

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