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学びが無い人

人間は晩学という言葉を生み出し後世に伝えられるほど知識に飢えた存在である.

しかし最近知識に関する考え方が変わってしまい、知識はイコールの式で表せせると思い込んでいる人が出てきてしまった.そんな人たちに向けた知性とは何か.学びとは何か.について言及していきたい.

セレンディピティは人生で3回

たまたまの出会い.これは人生における大きな分岐点であり、少なくとも毎日一回出てくるようなものではない.私も日々セレンディピティを追い求めて読書をするわけだが(趣味の領域)24時間セレンディピティを追い求める愚かな存在はいない.

セレンディピティは偶然性であり、結果である.プロセスはどうでもよくても出会ったら奇跡だ.

先日Xで「修学旅行は学びがない」と書いた方がおり、ガクッと肩を落としたのを覚えている.残念な人だな.と思いながらも現代人の本性を見れた気がした.

学びに対する考え方が曲がってしまったせいで養老孟司さんではないが「ああすれば,こうなる」理論が頭の中で出来上がってしまっている.

だからこそ偶然の出会いというのは頭の中で「人生に3回起きるかどうかの奇跡だ」と理解することが重要なのである.

インターネットは現実を越えるのか

「インターネットを使えば家でも海外に行けます」という話はあながち間違ってはいない.例えばコロナ禍の修学旅行では開催が延期、中止が相次ぎ多くの学生たちは肩を落としたに違いない.そこでオンライン修学旅行を開催する旅行会社が出てきたりオンライン系のビジネスが急激に勧められた.

しかし現実ではない世界は現実の世界には到底勝てない.そして学びも家の中だけでは起きない.寺山修司の「本を捨てよ、町に出よ」はまさに現実世界の重要性は解いている.

僕の考える「学び」とは検索する力である.別に慰安旅行程度の外出であれば学びが目的ではないが修学旅行となれば違うだろう.

その土地を訪れた時に「調べる」それこそが本来の学びなのである.僕は外出が好きでよく外にでる.訪れた土地でたまたま見た景色が自分の五感を燻り「あれは一体?」と湧き立たせる.それにより調べる口実を作るのだ.

この動作は家の中では絶対に起こらないだろう.修学旅行だとすれば尚更である.訪れる土地の情報は調べなければ得られない.

学びを得るというのはこのことではないだろうか.

それでも学びがない.というならば、それは自分の教養がないか、それとも全てを知り尽くした全知全能の存在だろう.

何も調べず、ただ人の喋ることを聞く、そして学んだつもりになる.(教養がない人はここまでいかない)のは最悪の結末である.その土地での時間は完全な無駄になったわけだからだ.

晩学という言葉を紹介したが、人間は何歳になっても学べる存在で、40にして天命を知ると言われる.それは40までの経験、知識が蓄積され遂に自分のあるべき姿を見出すことができる.考え抜くことができるからではないだろうか.

それを高校生のうちに学びはない.とするならばなんと残念な人なのかわかるだろう.

まずは書を捨てて町に出る.そしてスマホを取り出して調べる.それが現代における学びの姿勢だと僕はXの投稿を見ながら考えてしまった.

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