エッセイ「詩と小説」4. #執筆観

 本稿には少しばかりですが、東日本大震災についての内容を含みます。心的外傷等をお持ちの方は、どうぞご注意下さい。


 詩人・立原道造には『くん』が似合う。『君』ではダメだ。むしろ『きゅん』くらいでいい。
 『立原くん』『みちくん』『立原きゅん』……
 どうでしょうか?

 立原くんは1914年(大正3年)に生まれ、24才の若さで夭折した。同世代の詩人に中原中也(1907〜1937年)がいて、こちらも夭折。『詩人はその高すぎる感受性ゆえに長生きできない』というのは、この2人がレッテルを貼っていったものじゃないかと思っている。実際は2人とも結核に関連した死だった。

 さて立原くん。彼は実は文学者ではなく、工学部建築学科卒で卒後も建築事務所勤務。学業においてもかなり優秀だったそうだ。当然真面目くん。振られ続きでおそらく童貞くん(?) 学業や仕事のかたわら詩作品を残したという典型的な優男だ(もちろんそれ以外の一面もあったようだが……)。

 立原くんの詩には〈すき間〉と〈あそび〉がある。基本構造は4・4・3・3行のソネット形式なのだが、かっちりとしていない。行のなかではただなんとなく呟いているようで、韻律に強いこだわりがあったようには思えない。
 7・5調と思ったら急に8・6調になったり。突然、主語や述語を省いたり。そして1文字の余白。意味があるようでない。
「立原くんがまた黙っちゃったよ〜」
 なんて当惑しながら読むのが楽しい。意図していなければある種の気まぐれ・マイペース、意図していたら自由自在、といったところだろうか。

 一方で中原中也は頑なだ。彼の守った7・5調は、和歌からの流れもあって日本人には馴染みやすい。明確なリズムの中で流れるようにすっと心に響いて、ダイレクトに刺さる。しかしどことなく窮屈さを感じるのは僕だけだろうか。その閉塞感は彼のうたう抒情のせいだけではないと思う。

 東日本大震災のとき、僕は耐震構造の建物の2階にいて、凄まじい揺れに慄いた。それは鋭くて硬くて、衝撃!また次の衝撃!! 物が跳ね上がっては落ちて落ちて、目の前で壁にヒビが入ったのを見た。とにかく丈夫に、と造られた建造物にはヒビが入る。
 ときを同じくして、のちに僕の職場になった免震構造の建物は、より震源に近かったにも関わらず、建物自体はまったくの無傷。物は落ちたが建物の損壊はなかった。聞いたところによると、揺れの方向をできる限り均一化し(横揺れに変換して)、横方向の構造にはある程度隙間があって、自由に揺れさせることによって衝撃を吸収する仕組みだそうだ。

 誤解を招かぬように先に言うが、僕は中也も好きだ。絶望の深淵で身を硬くして、必死に寒さを堪えながら、やせ我慢のような7・5調をうたう中也が好きだ。あれだけ胸をじかに鷲掴みされる感覚は、中也の詩にしか見つけられない。しかし7・5調の中でギシギシと軋む音に、必要以上に不安にさせられることがある。その踏んばり方はまさに耐震構造なのだ。
 対照的に、立原くんの詩はきっと免震構造なのだと思う。力を抜いて、頬杖したり、手を頭の後ろで組んだり。なんとなくボーッと空を見上げて口ずさむ。かれは〈すき間〉と〈あそび〉があればきっと大丈夫なことを知っている。
「ん、つらい ね〜……え、何がって?……うん 」
「またふられちゃっ たよ〜……はぁ……」
 みたいな哀しいぼやきやため息が詩になる。

 立原くんは純朴な好青年。しかしそれと同時に建築学の秀才だったわけだ。きっと、実はそんな〈すき間〉も〈あそび〉も意図して書いたと僕は思っている。
 あたかも設計図を書くように机にかじりついて、
「ここを1文字削れば」「ここの述語を省けば」
 なんて試行錯誤している姿が目に浮かぶようだ。その結果として生まれた詩は、不思議なくらいに人の負の感情を吸収してくれる。敢えて余白を作った立原くんの詩は、昭和初期にすでに発明されていた最新式の免震構造だったのではないだろうか。

 すき間が好きだ。ダジャレだよ。
 暑い日に窓の隙間から吹き込む風はとうぜん気持ちがいい。部屋の隙間に入ってみて窮屈な思いをするのも良い。ビルの間に強い隙間風が吹き荒ぶと、都会にいながら自然の力強さを感じられる。
 人生にすきまがあるのはもっともよい。それは文章のすき間が文を豊かにするのと同じで、人生をゆたかにする。すき間は彩りも飾りもしないし、問いを投げかけてきたりもしない。

 ただそこにあって、ゆたかにしてくれるもの。
すきまがすきだ。



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