エッセイ「詩のお師匠さん」 #執筆観

 春は花に目を奪われる。夏は新緑の青さと陽の眩しさに圧倒される。〈秋は紅葉……〉。冬には足が家に向き心は内を向く。
 秋は紅葉。キンモクセイが香ったと思ったら、いつの間にかモミジやイチョウは視界を彩っている。でもそれは一瞬のこと。冬にうつろうひととき、疎らになった葉の隙間には幹や枝が覗く。秋の終わりには樹が主役になる。花でも実でも葉でもない。樹だ。

 「お師匠さん」
 あなたの顔を心に浮かべる。あなたは樹が好きだった。でも現実の『樹』のことを「樹」とは呼ばなかった。なぜなら本物の『樹』には必ず名前があるからだ。モミジ、イチョウ、モッコク、サルスベリ……
 お師匠さんが「樹」というとき、そこには別の意味があった。命の樹、愛の樹、言葉の樹。それは循環しながら変化を厭わないもの。だのに連続性を失わないもの。僕はあなたのつくる言葉の樹が大好きだった。

 活字になって、大量に印刷されて、僕らの手に届く詩集。それはあなたという人間の形をした大樹の、ほんの一部の枝葉にすぎない。しかもそれは模型のようなものなのだろう。もしも、あなたの姿を目で見て、声を直に聞いて、あなたの吐いた息の色や、立ち上る風情を間近に感じられたのなら、どれだけ幸せだったろうか。あなたの樹の全体をもっと感じたかった。

 僕には『お師匠さん』が2人いる。1人は僕を創作の世界に引き込んだ現代の作曲家。そしてもう1人が樹を愛するこの詩人である。僕は『お師匠さん』という呼称が好きだ。そこには『勝手に師匠と呼んでいる』ニュアンスがある。職業人としての僕には本当の意味での「師匠」がいる (もしくは「先生」「お師匠様」)。しかしあなたたちは、かれとは違う。あくまで心の師なのだ。直接会ったこともないのに、妄想だと分かっていながら、勝手に師と仰いでいるのだ。相手からしたら気持ち悪いかもしれない。でも10年も20年も静かに敬愛されていたら、さすがにこの情念を受け入れてくれるのではないかという勝手な期待もある。当然、呆れ顔を浮かべられて構わない。(でも嫌悪されるのはいやだなぁ)

 『詩のお師匠さん』が、カルチャースクールで〈詩の鑑賞会〉を開催していることを知った幾年か前、さんざん迷ったあげく僕は足を運ばなかった。たぶんその日には仕事か、デートか、とりとめもない用事でもあったのかもしれない。正直覚えてもいない。しかし次にあなたのことをメディアで見たのは、あなたの訃報だった。その時々で色々ありながらも根は前向きな僕に、はじめての〈後悔〉をくれたのがあなたの死だった。もう一度言う。

もしも、あなたの姿を目で見て、声を直に聞いて、あなたの吐いた息の色や、立ち上る風情を間近に感じられたのなら、どれだけ幸せだったろうか。

 僕は閉まっていたお師匠さんの本を取り出した。読んで、読んで、読みまくったあげく、お師匠さんは死んでいないことを知った。肉体は息をしなくなっても、あなたの樹は枯れずにずっと在る。きっと在り続ける。同じ時代に生まれたこと、その奇跡だけで充分なのだ。

 とはいえ息をする肉体が尊いことにかわりはない。『詩のお師匠さん』の死からしばらくして、僕は『音楽のお師匠さん』にファンメールを送った。『詩のお師匠さん』の死から味わった後悔を繰り返さないためにも。
「20年応援しています……」「あなたの作った曲のおかげで……」 1度目はE-mailで、2度目はTwitterで。どちらも返事をくれて歓喜のあまり小躍りでもしそうな勢いだった。そして、2度の返事にはこう書いてあった。

「生涯現役として仕事をしたい」

 そうか。これが『詩のお師匠さん』が言っていた「樹」ということなのだろう。見栄えを良くしたい、読者を増やしたい、感動させたい。そんな気持ちから、ついつい花を付けたり、果実をチラつかせたり、色を塗ったりして、装飾したくなる。しかし大事なことは……ダイジナコトとはまず樹で在り続けることなのだ。僕もあなたたちのような樹になりたい。

 お師匠さんたちの名前は言わない。僕にとっては貴人だから明かさない。僕だけのとっておきの魔法のコトバだからね。



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