見出し画像

続きがないのが寂しいなぁ

仕事でお付き合いのある方で、ルックスもムードもオーラも高橋一生さんに近い男性がいる。物静かで、物腰柔らかく、知性がラストノートのごとく漂ってくる。押し付けがましさが一切なく、コミュニケーションに余白があって良い。身なり身のこなしも緊張感を与えない。
ある男性たちは、知性の香水を撒き散らして常にトップノートで、しかもトップギアの速度で迫ってくる。彼らと接するとき、思わず目も耳も、鼻さえも塞ぎたくなる。彼らは無意識でそうしているのかもしれないけれど、ときおり何かに急き立てられているようにも見える。
ミドルノートくらいならばそこそこいるが、ラストノートの人となるとなかなか珍しい。

「友だちになりたい」

と、今日ふと思った。仕事の関係上、その男性と友人になれるはずはないのに。仕事を有利に進めたいとか、得られるものがありそうだとか、打算的な思考が働いたわけではなく、ただ「友人になりたい」と思った。

そもそも僕には「友人」という概念が乏しい。遊び友だち、飲み友だち、近況報告をする旧友などはいないわけではない。彼らのことは好きだし、困ったことがあれば手を差し伸べることを躊躇はしない。しかしそれは結果論であるような気もする。だいたいは学校や職場の関係の延長だ。延長することになったのも、同窓会とか近況報告会とか、はたまた愚痴会とか、何か友情とは他の枠組みによって外から機会を与えられたからのように思える(ただし、このことを友情じゃないと否定はしない)。

初期仏教には「善友を持てば修行は完成したも同然だ」という教えがある。友人は自らを映す鏡だという観念は、2500年前に既にあった。ここで重要な前提として、初期仏教は都市社会において成り立っているという点がある。つまり人の流動性のある環境においてこそ、人は友人を選べるということだ。
一方で、周辺地域では人の流動性が少ないため「友人を選ぶ」という概念が育ちにくいという意見がある。そこでは与えられた人間関係の中での付き合いがずっと持続していくのだ。

言われてみると思い当たる節はあって、田舎で育った幼少期の僕には、環境の枠の中で付き合う人はいたとしても、「仲良くなりたい」とか「一緒にいたい」と自分から思える人はいなかったかもしれない。わんぱくな子たちと遊ぶ選択肢しかなかったのは正直つらかったかも。とは言え「嫌なら誰とも付き合わなくていいや」とひねくれることが出来たので、致命傷には至らなかった。しかしそのせいか田舎に関係の続いた友人はいない。

おそらく「選ぶ友情」も「続ける友情」も両方大事だ。ただし「選ぶ友情」では必ず自発的な感情や意志がイニシアチブを取る。今日はそのことを心底感じた。
30代になってなぜ「友人になりたい」などと思ったのか、まったく不思議でならない。何か人間の根源的な……ギリシア哲学が言うところの「善のフィリア(最上の友愛)」みたいなものが自分の中にも隠れていたのかもしれない。本質的に好ましい他者を希求する気持ち。一次的な感情。恋愛の他に、そんなものが僕にも残っていたのかと思うと、安堵するような、気恥ずかしいような。

枠の中で「友だち100人」は正直必要ない。
少し足を伸ばしてでも会いたい・話したいと自ら思える。そんな友愛の対象がゼロでないこと。こっちの方がよほど大事だ。
今日は新しい自分に出会った気がする。


新しい私、デビュー!
(令和コンプレックス*)


* 元号が変わることによって、口では「元号変わっても何も変わらないよね」とか言っていながら、無意識下で平成のカルチャーへの言及が増えたり、平成の文化を賛美してしまう現象。およびそのような心理状態。ノスタルジーの一種。(出典:れんと大辞典)

追伸
noteって選ぶことも続けることもできるから良いよね。

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!