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ひどい人(エッセイ)

「(上司は)矢口さんのご学友とうかがっております。高校時代の」

「ええ、よく憶えてますよ。テニスが上手で有名な女性でしたから」

「あ、ご本人を憶えてらっしゃいますか? 彼女は『私のことは知らないと思うけれど、矢口さんと仲の良かった友人と付き合っていた女と言えば分かる』と申しておりました」

「!!?? 誰? その友人って誰!?」

 とまあ、ビジネスの現場で不慮の恋バナが始まってしまい、その後の話は上の空。両者とも社会人失格でございます。この4月より社会人になった読者の方々はマネしてはいけませんよ。「恋バナと社内恋愛は諸刃の剣、ゆめゆめお気をつけなされ」と古い言い伝えがあります(テンポよくまとめたかっただけです)。

 人との親しさ・精神的な距離を5段階評価してみます。最も近しい人を〔1〕、最も遠い人を〔5〕と設定してみます。すると記憶によく残っているのが、〔2〕とか〔4〕くらいの人とのエピソードだったりすることがあります。意外に〔1〕とは残っていないのです。親友の親友〔2〕とか、数回話した程度の親しくもない同級生〔4〕の方が……ということがある。不思議な現象だと思いながら、こういう経験は少なくないのです。中途半端な距離感が良いのでしょうか?

 〔1〕になりたかったのに〔2〕で止まってしまう人もいます。だいたい恋愛なんてものはそんなものでしょう。そして残酷なことに、おそらくこの数字が双方で一致することも少ないと思います。友情・恋愛に関わらず、若い頃はそれが許せませんでした。それゆえに傷ついたり傷つけたりしました。しかし今になると、その歪みもまた人間関係の面白みに感じられます。

 「今」の関係ですら主観的な重み付けの価値体系は千差万別です。「過去」まで範囲を広げたら、そこはもはや宇宙だと思います。だからこそ面白い。その宇宙の一部を垣間見れるのが、私小説や日記文学なのかもしれません。これらもあくまで混沌のごく一部だから、摂理を教えてくれるわけではありません。読んだからといって役に立つこともないと思います。ただ混沌であることを取り繕わないところは、深い慰みにもなることもあるでしょう。一方で人間関係のハウツー本(特に恋愛指南本)ほどつまらないものはありません。

 ときどき「別れた恋人は死んだことにする」という処方箋を目にします。おそらく〔1〕になりたかったのに相手の〔1〕にはなれなかった時、そういった思考も必要なのかもしれません。でも自分はどうも「恋人(や好きな人)を死んだ人」にはできないのです。こういった時、僕は目を閉じて宇宙を感じます。物理的にも精神的にも広がった広大な宇宙で、出会っただけでも幸福なのかもしれません。神さまの気まぐれに、腹を立てても仕方のないことでしょう。他人も自分さえも、コントロールしようと思うのはおこがましいのかもしれません。

 この話、
〝その上司さんのことを実は僕が好きだった〟
とか
〝その友人の近くに居たのに、付き合っていたことを知らせてくれなかったのがもどかしい〟
といった結論に落ち着くのが筋だと思いますが、そうではありません。

 単純に、高校時代に恋愛体質だった僕が、友人全員を〔3〕くらいに考えていただけのことです。外から見れば〔1〕に見える人もいたのでしょうし、上司さんから見れば僕と友人の関係は〔1〕だったのかもしれませんが。その友人に関しては「この人かな?」くらいの心当たりはあるのですが、残念ながら確証は持てないままに記憶の糸が切れました。

自分はひどい人だ、くわえて女々しい男だ。悔いたところで、そうやって宇宙を行き渡ってきたことは変えようがありません。

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!