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針と糸を手に、言葉について考えた

やりたいこと……をリストアップすると、たいていの場合は1つも出来ずに時ばかりが過ぎる。平成の間に気付いた、自分の習性の1つだ。ということで、自分の中では「やりたいと思ったことは溜めて置かずにやってしまう」という行動習慣にシフトした。これが身近な人には奇異に映るようで、突然の行動で驚かせてしまうこともあるようだ。もっとも、最近は新しいお付き合いも少なくなってきているので、周りには「ああ、れんと君だものね」という人ばかりでありがたい。

昨日はずっと裁縫をしていた。年に数回、衣類のリメイクを始めてしまうことがある。どうしてもここだけが気に入らない、とかいう時には、自分で直してしまう。身幅や裾幅を縮めるくらいは簡単だ。
布のデザインやシルエットは完璧なのに、ボタンの色だけが気にくわないシャツがあった。昨日はそのボタンの付け替え。少しばかり光沢のあるダークグレーのシャツに、元々は一般的な白ボタンが付いていた。なんでこんな野暮ったいことをするのだろうか?と、着るたびに不愉快な気分になっていた。「なら買うなよ」と自分でも思うのだけど、後から気づいてしまうことは案外多い。

シャツの白ボタンを外し、グレーのボタンに縫い替えている間、何の気なしに「平成」を振り返った。思い出される瞬間瞬間は刺激的なものばかりで、よく生き抜いて来れたなと思った。ある人たちは「人生」において「失敗」や「間違い」は存在しないと言う。それは半分当たっていて半分は違っていると思う。「今」さえそれなりに充実していれば、大方の「失敗」「間違い」は「転機」であったに過ぎない、ということだろう。このある人たちの言葉は、「失敗」を好機に変えられない人、「失敗」のどん底にある人、どん底が続いている人にかけてはいけない。

いつも思うのだけれど、その言葉が誰に向けて書かれている(言われている)ものなのか、をちゃんと見極めなければならない。三島由紀夫の言葉が響く人もいれば、ヘッセの言葉を大事に胸に蔵うひともいる。フランシスコ教皇を聴く人がいれば、トランプ大統領を信じる人もいる。
もちろん、その言葉が響く時点で親和性はあるのだろう。しかし最近は言葉が溢れて過ぎているし、技巧で取り繕って扇動するものも少なくない。

平成の終わりの日に、平成は自分にとってどんな時代だったかとまとめるならば、「届かなかった声が届くようになった時代」にしたい。自分に対して向けられて、当時ははねのけた(相手にもしなかった)言葉がいくつか思い出される。不思議なことに、今ならその言葉が胸に沁み入るし、何なら自分にとっての救済や礎になっていると言っても過言ではない。大事な言葉は、いつも素朴な様相をして現れる。自分を良い方向へ導いてくれるのは、取り留めもない言葉なのかもしれない。

令和元年にやりたいことは「素朴な言葉」集めだ。と言っても、ネットサーフィンして探したり、会話中に逐一メモを取って集めるようなことは当然しないw。つまるところ、人とのさりげないお付き合いを大切にしたいというだけだ。僕の知らない言葉を知っている人がたくさんいる。その意義や価値など関係なしに、その人たちの持つ固有の言葉の世界に、少しばかり触れさせて頂きたいと思っている。令和元年にやりたいことは、この1つだけで良い。

自分に気に入らないところがあっても
服と違ってすべては買い替えられない
しかしボタンの付け替えくらいはできる
それだけで少しばかり自分が好きになる

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!