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偶然、生きてきたし、生きているし、生きていく

「日焼け止めに関する報告書(第2報)」

伸び、良し!
使用感、良し!
肌への刺激、僅か!
テカり、許容範囲内!
肌の乾燥、許容範囲内!
皮膚の反応性湿疹、ほぼなし!
吹き出物、1週間使用で軽症2個
      使用前とほぼ変わらず!
日焼け止め効果、今後検証していきます!

……と、いうわけで1週間ほど前から使い始めた日焼け止めジェルの使用報告でした。
指導官への報告テイストにやってみましたがいかがでしたでしょうか?
ぜひテンポよく朗読してみてください←

冗談はさておき、本日は「偶然性」のお話。
Twitterでフォローさせて頂いている哲学者の千葉雅也さん。いくつかの著書や言説を拝見して面白い方だなと思っていた。
彼が先日、

「オレオレ詐欺の加害者は生の偶然性に翻弄されている。詐欺的なものは生の偶然性への抵抗、復讐ではないか」(筆者要約)

と呟いていた。
すごい。すごいよく分かる。西洋哲学に詳しくない僕にとって、彼の書く内容のすべてを理解することは難しい。しかし彼は時折、哲学の門外漢がハッとしている間にスッと染み渡らせてくるような表現をしてくれることがある。

つまり、オレオレ詐欺は成り代わりによる奪取である。そのため、被害者と加害者それぞれに何の理由もなく生じた境遇の差異を、加害者が受容できないがゆえに生じる「哀しさ」を帯びている……ということらしい。

他人の境遇を羨ましく思ったことのない人間がいたら、ぜひお目にかかりたい。正直交代してみたいと思うことくらいはあるだろう。
多くの人の場合、その辺で留まる。
羨ましい境遇から何らかを何が何でも奪取したいとまでは思わない。おそらく健全な人は、自分の偶然性の生(境遇や才能など)をある程度は受容できるのだと思う。そして、それを犯すことの「哀しさ」も何となく知っている。

しかし奪取の対象がお金である場合、話がすこし変わってくる。法を犯すことになっても、物理的には奪取できてしまうからだ。
どうしてもつきまとう「諦めきれなさ」というものが問題となってくる。
そういう意味で、さらに哀しい。
たとえば僕が石原さとみさんの顔を奪取できないこととはまったくわけが違う。そこに哀しさは付きまとわない(?)

(ちなみに僕の実家にもオレオレ詐欺の電話がかかってきたことがある。しかし、肝心の僕の名前の「読み」を間違えたため、両親に適当にあしらわれてしまったそうな。
読みにくい名前を付けてもらえて良かった←)

さて、この偶然性と日焼け止めの話がどう繋がるのかというと……
先に紹介した日焼け止め、なんと1週間前の急に日が照り出した日に、応急処置的にファミリーマートで購入したものだった。
例年、日焼け止め選びには苦労する。たいていはテカり過ぎたり、乾燥しすぎたり、2-3日で吹き出物が多発して、すぐゴミ箱行きとなってしまう。
しかし今年はだいぶ違ったのだ。

偶然性その①
毎年、商品の成分やら口コミやらを吟味するため、時間をかけて購入していた。しかしその日は突然の日照りのために手近なコンビニで済ませた。

偶然性その②
手に取った商品は偶然、普段なら避ける成分が高配合されているものだった。

偶然性その③
コンビニはセブン派なのに、その日は職場近くのファミリーマートに立ち寄った。加えて、購入した日焼け止めはなんとファミマ限定の商品だった。

そんなこんなで、いくつかの偶然の元に購入した日焼け止めが、例年のものよりも体質に合っているかもしれない、という話だった。
強すぎる日差しはつらいけれど、この夏一発目のサンシャワーはある意味では恵みとなったのかもしれない。
そう「大いなる正午」のような(?)

ネットを開けば、色々な知識や技術が手に入る。今なら「それらがなければ損をしてしまうかもしれない」といった不安に駆られたりもする……
しかしそういった浅学が、逆に自分を間違った方向に進ませたり、可能性を狭めてしまうこともあるのだろう。
体質に合う日焼け止めに今年出会えたことは偶然だったし、去年まで出会えなかったこともおそらく偶然だ。
それを言うなら、出自や体質はもっと偶然だ。
こうしてる間にも、僕よりも年配なのに肌の綺麗な方が横を通り過ぎていく。
それを僕は羨ましく眺める。
偶然出会ったこの日焼け止めだって、どれだけ僕の肌に寄与してくれるか分からない。
明日急にアレルギーが起きるかもしれない。

しかし、それらすべて仕方ないことなのだろう。
良いことも悪いことも、偶然性の上に成り立っている。科学・理論・過去の経験が及ぶ範囲というものは実は非常に狭いところなのだと思う。

こうなると消極的ニヒリズムに陥ってしまいそうにもなるが、それは違う。
私たちは現に生きているし、生きていかなくてはならない。
「生きる」という単語そのものに、すでにある程度の能動性や方向性が含まれている。
科学・論理・経験などを否定しながら偶然性にすべて委ねることと、偶然性の生を生きることはまったく違う。
科学・論理・経験は、個人を正解に導かないこともあるかもしれないが、それ以上に、生そのものに能動性と方向性を与えることは確かである。

偶然性の世界で時にたゆたいながら生きる。
偶然性の上に積み重なっていく自分を受容しながら生きる。
そうしてこれからも生きていく。

柳や竹に例える「しなる」強さを連想した。
思っている形と違ってしまったとしても、折れたりはしてないんだよね。
偶然性とは違うけれど、絶対的なところの外を想定して肯定するって大事だ。
高校野球とかでも「締まっていこうぜ!」だけじゃなくて「しなっていこうぜ!」って言った方が良いよ。
未来の可能性にかけて甲子園予選を出場回避したって別にいいじゃんね(毒)

偶然、野球の話題が出たところで、、、
今ちょうど野球をテーマの1つにおいた小説を連載しています。
が、読者が少なく「読み切りの日比野くん」を相手に苦戦を強いられ、作者がちょっぴり悲しんでおります。
テンポ遅いし、長いし、なんか暗いけれど、そのうち楽しくなっていくはずなので、ぜひ読んで頂けたら嬉しいです(。-人-。)

連載小説『逆さまの空へ』

強引な宣伝、失礼しました、てへぺろ

ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!