エッセイ「あなたの眼鏡の色は」

 『色眼鏡』 先入観や偏見のもとに物事を見ることのたとえとして、否定的な意味で使われることの多い言葉だ。逆に、先入観や偏見を肯定的に捉えようとする、一般的な日本語を僕は知らない。

 日本語使いとして悔しいことだが、英語にはその表現がある。『rose-colored glasses』(バラ色の眼鏡)。その眼鏡を通して見ると全てがバラ色に映り、楽天的で能天気なことのたとえである。「ああ、なんとステキな眼鏡なのだろう、欲しい」と思う人もいれば、「そんな眼鏡かけて能天気になったって、実際の現実はそうではないのだから」と訝る人もいるかもしれない。
大森貝塚を発見したエドワード・モースはこの比喩表現をもっとも深い意味で用いて、こう語った。

 他の国民を研究する場合、望ましいのは色メガネをかけずに対象を見ることである。しかしながら、もしそれが出来ないならば偏見のススでよごれたメガネをかけるよりもバラ色のメガネをかける方がましである。

 自分が他国のことを、色眼鏡をかけてでしか物事を見れないことを知っていたモースは、「どうせなら新しく目の当たりにする物事を、ステキな色で見てみたい」と言うのだ。やさしい。日本人にとっては、なんともありがたい話だ。

 よく悲観的な人は色眼鏡で物事を見ていると言われる。そのレンズは何色? バラ色が楽天的だとしたら、その反対とはなんであろうか。黒かグレーか、深い青といったところだろうか?
 しかしぼくはそうは思わない。ペシミスティックな人は概して人にやさしい。やさしいのに、なぜか世を儚んでいる。いったいあなたはどんなレンズで世界を見ているのだろうか?

 ここから先は完全に僕の妄想になるのだが、ペシミストこそバラ色の眼鏡をかけて物事を見ているのではないかと思うときがある。かれらこそ、バラ色や黄色や橙色の、周囲の人や環境が必要以上に美しく見える眼鏡をかけているのではないだろうか、と。しかし自分を見ることにおいてだけは、そのレンズを通して見ないから、世の美しさと自身の卑小さの狭間に嘆き、世界の法則と自分の法則との差異に悲しむ。周囲が必要以上に美しく見えることは、対比して自身の現実を必要以上に見つめてしまうことにもなる。ペシミズムのことは通常、厭世的と訳すが、多くの場合は厭自的なのだ。
 そして、その色眼鏡はたぶん着脱可能で……ずっとバラ色の眼鏡をしていた人がその眼鏡を外した時の、深い落胆は想像に難くない。ペシミストはこうして、自身のうつくしくなさと、世界のうつくしくなさとの両方と対峙させられる。

 世界が美しくなくて、うつくしくなりうること。そのことを知っているペシミストには大事な仕事がある。それは卑小な自分ができうる現実的な方法で、なるたけ世界をうつくしくしていくことだ。遠い理想だとしても、あなたは世界の美しいあり方を知っている。それゆえに悲しみ嘆いている。そんなあなただからこそ、きっとできるのことなのだ。

 ところで逆に、ずっと黒いサングラスをかけていた人が外した時の、世界の色彩、その色の差異の中に満ち満ちる美、それを目の当たりにしたときの感動は言うに及ばない。
 さて上のどちらが本当にペシミストなのか、オプティミストなのか、まったく分からなくなってくる。本来、世界は流動的で相対的だ。人間だってそう。だから、個人だって本当はずっと同じ世界の見方をしていない。

 では、ism(イズム)や、ist(イスト)といった、一貫性のある信条を掲げる人々はいったい何者なのだろうか? 明らかな世界の流動性と相対性を、無視しようとする姿勢はどこから生まれるのか? 1つは、自分が色眼鏡をかけていることを認識していないことを土台とした信条や人々であると思う。そしてもう1つはそのことを分かっていながら、敢えて色眼鏡をかけていこうという試みであろう。モースの言説は後者の姿勢から生まれた。

 生きにくさを感じている人こそ、ペシミズムを敢えて選び取るのも良いのではないかと思う。世界のうつくしさとうつくしくなさを同時に知ることができるのは特異な才能だ。そして、色に優劣がないように、きっと悲観にも楽観にも優劣はない

 もしあなたが美しくない世を儚んで嘆いたとして、
「悲観的はよくないよ」
 なんて上から目線で言われたとしたら。
「楽観的だけもよくないよ」
 と言ってみるといい。
 その瞬間、きっとモノクロの風景に次第に茜さしていくように。流動的で相対的な世界のうつくしいさまを、その目で見ることができるんじゃないかな。


#小説 #小説家 #執筆 #習作 #詩 #随筆 #エッセイ #ペシミズム #悲観的 #厭世


ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!