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手紙、呟き、かわいい貝殻

「れんと君と話しやすかったのはどうしてだろう? おそらく中性的だからだと思います。すごく褒めてます。そういうれんと君の良いところをこれからも伸ばしていけば、むちゃくちゃカッコイイ大人になると信じています」(ある教育実習生からもらった手紙)

昨晩、noteでいつもお世話になっているフォロワーさん達から、「音声あげて」と依頼(?)があり、恥を忍んでアップした。
話すのは苦手だ。頭の中がいつも整理されていないからだ。起承転結、序破急なんて夢のまた夢。
あーでもない、こーでもない、あっ止まった、あっ噛んだ、頭真っ白……take30くらいまで録音して、完成させることを断念した。稚魚を放流させるがごとくアップ。笑
好きじゃない。自分の好きじゃない声。だが、「柔らかい」とか「優しい」とか言ってもらえると、とうぜん嫌な気はしない。むしろ嬉しい。ありがとう。

青年期から壮年まで、体は大きくなったり萎んだりするし、皮膚の油分も多くなったり枯れてきたりもくる。しかし声はあまり変わらないと思う。不思議と、口調も変わりにくい。
昔からよく「中性的」と言われてきた。僕は最近言われる「ジェンダーレス男子」のようなルックスではない。神木隆之介きゅんみたいに可愛くもない。おそらく僕の「中性性」は見た目というより、思考や話し方や声にあるのだと思う。「文学的中性」と言って良いだろうか、そして伝わるだろうか?

中性的であることを、「オカマ」などといった差別用語で罵られたことがある。特段多かったわけではないが、そういう経験はゼロではなかった。中学時代に1人しつこく言ってくる奴がいて、人生最初で最後のグーパンチをお見舞いしてやった(あの時はごめんなさい)。
僕の世代だと、古典的「男らしさ」の不足・欠如を、「オカマ」という言葉で虐められて苦しんだ過去を持つ人が少なくない。そして当時それを死ぬほど悩む人もいれば、一生涯引きずる人もいるようだ。

しかし小学生の頃から僕は気付いていた。「男らしさ」「女らしさ」で人を判断したり価値を見出す人間は、ただ同調圧力に負けただけの虚しい存在であるということに。孤立が怖くて、くだらないヒエラルキーの中でもがいている人間が、自分より〈下〉の存在を探して刺し示す言葉が、「男らしくない」「女らしくない」「オカマ」「オトコオンナ」などだ。ただ観察力と表現力が欠如しているだけ。
そんな自分自身を安く売りさばいてしまった愚者に、何を言われたとしても落ち込むことなかれ。「中性道」楽節30余年、師範代からのエールである。

2年ほど前にすごく嬉く感じることがあった。男ばかりの集まったプチ同窓会でのことだ。30歳を過ぎると、同窓会で「みんな老けたよな〜」というセリフが飛び交わないことは少なく、その会も例に漏れていなかった。
席には、中学高校と一緒だったが時々会話を交わすくらいの関係だったF君がいた。同窓会の定型的会話のさなか、彼がふと口を開き呟いた。
「れんと君も老けた。老けたけど今もかわいい。昔はもっとかわいかった」(原文ママ)。
僕は驚いて一瞬言葉を失った。しかし間を空けずして、その場で飲んでいた全員が頷きながら彼の言葉を肯定し、おそらく、僕の存在を肯定した。何となしに、会話は楽しげに続いていった。僕はただただ友人に恵まれていた。

知ってる? 多様性ってメディアや有識者の所有物じゃない。ましてや当事者が要求するものでも、非当事者が承認するものでもない。
気が付けばそこに「ある」もの。飲み屋に、教室に、家庭の食卓に。「ない」という状態の方が異常なんだよ。

思うに人は皆、心に貝殻を持っている。生まれた時に母なる海が運んできたか、物心つく前に父と手を繋いで歩いた海岸で拾ったものか。綺麗に見えなくもないけれど、実はいびつな形で、欠けていたりもする。
歳を取っていくとと、どうも手元に残る貝殻が少なくなる。例えば「ボク」を「俺」に変えた日に、例えば昨日まで仲良かった女友達を無視した日に、例えば大学デビューを決心した日に、例えば入社式に……

僕が大切な貝殻を守れたのは、教育実習生から手紙を貰えたからだ。そしてF君のような人間と、彼と同じ気持ちを少なからず抱いていた友人たちが、人知れず見守ってくれていたからだ。
社会人になってから、僕はかわいくなくなった。僕の仕事では、老けて見えることによる安心感や、威厳っぽいものに付随する信頼感が、ある程度要求されてしまう。そうじゃなくても、肌はボロボロ、ヒゲ面、眉間に皺。仕方ないね。
それでも「かわいい貝殻」は絶対に捨てない。かわいくなくなっても、捨てないんだよ。今の僕が存在するのは、この貝殻をくれた人と、それを守ってくれた人々のおかげだからね。

今日は少し自慢話(?)を交えた。あえて書いたことには理由がある。マイノリティに関して報道され明るみに出る情報は、イズムに紐付いた過激なものや、学問と交錯した小難しいものや、一部の悲劇的な報道ばかりだからである。でもきっと現実にはそうでない一面もある。
もっと感じて欲しい。日常の中に、人の輪に、友の表情に。何気ないワンシーンに流れる優しい調べを。
そして皆んなで貝殻を持ち寄って、よく見て、自分のものとは数も形も違うことを知って欲しい。願わくば、皆んなで見せ合って「綺麗だね」と褒め合いたい。そんな想いを込めて、今日の仮面の告白を終える。

こんなことを書いていながら、心のどこかでは西島秀俊の声に憧れている。顔は三浦春馬が良かった。刮目せよ!これが業というものだ。笑


*本投稿には差別用語を含んでおりますが、特定の個人や団体を差別する目的で使用したものではありません。

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