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【往復書簡:6便】狂おしくも愛しい日々

にゃんにゃん言ってる永田さんに観ていただきたい動画があります。バッハの「ゴルドベルク変奏曲」、グレン・グールドによる演奏です。

グレン・グールドもなんかにゃんにゃん言ってる。ノリノリに歌うところもあれば、気まぐれに引っ込むところも。指では高速で超絶技巧を披露しながら、上半身はピアノに寝そべる猫のようです。

このピアニストの声ですが、名盤と呼ばれるレコード・CDにもしっかり入ってしまいます。
その奇怪な音声について、ジョナサン・コット『グレン・グールドは語る』(ちくま学芸文庫)で、インタビュアーがグレン・グールドに問います。

(インタビュアー)◼️なぜ鼻歌を歌うのか
録音を聴くと、鼻歌や歌声がしばしば聴き取れます(中略)ピアノで融通の利かない部分や不完全な部分を補う営みではないかと私はいつも思ってきました。しかし、超常現象と間違われそうなこの〝余分な〟音声を、可能であれば、レコードから除去するつもりはないのでしょうか?

これに対してグレン・グールドは、当時の技術では難しい(この雑誌記事の初出は1974年)ことを前置きした上で、こう答えます。

あの歌声にはなんの価値もありません。ただどうしても歌ってしまうのです。子供の頃、九歳か十歳で、本当に子供だった頃、学生コンサートで得意の曲を弾くと、今の私が最新盤について指摘されるのとまったく同じことを言われました。本質的に変わっていない。

グールドはピアノを弾く際に出てしまう歌声に「価値がない」と言い捨てます。一方で、インタビュアーは価値の存在を勘ぐっていますね。僕もインタビュアーと同じような疑念を抱いていましたし、この本でグールドが声の価値を否定していても、「またまた〜とか言いながら〜」などと彼の謙遜のように受け止めていたのです。もしくは演奏をブーストする秘訣、のような。
でも永田さんの書簡を読んで理解できたような気がします。
あの歌声は「!」「!!」「!」「!!!」みたいな感嘆符の投げ合いなのだと。もちろん、そうしてピアノと対話をしている、という解釈も成り立つかもしれませんが、おそらくは現代の尺度ではとうてい「対話」とは言えない、原始的かつ未来的な声の交わし合いなんだと思います。まさに感嘆符。
猫とピアノがじゃれ合う。敵意とも友好とも言い難い、声の応酬で。しかし演奏者がそこに価値を見出さなくとも、視聴者はそこに芸術の一回性の価値を付与してしまう。

余談ですが、録音時にグールドの声を消すためにガスマスクや猿ぐつわが用意されたことがあるそうです。笑

さらに余談で、僕はピアノを弾くのですが、右手だけの演奏になるときに、左手が宙を舞って羽ばたいてしまいます。
MCバトルで言うなら、黄猿ではなくTERA_Zの手の動きに近いです。クラシックだからブレーキング動作が少ないのかな?とも思ったのですが、色んな音楽を思い返してみると、たぶん僕はハンドリングの方が好きなのかもしれない。逆にブレーキングは失敗しちゃうことが多いです。エモくなれない。

ハンドリングによる引き込みとブレーキングによる感情の醸成、見事に言い当ててると思いました。書簡を読んでから改めてMCバトルを観てみると、ブレーキングがうまいと称された黄猿も巧みにハンドリングしていますね。なんとなく(笑)

立原道造の詩「傷ついて、小さな獣のやうに」です。僕は彼のことを勝手に「みちきゅん」と呼んでます。テキストを打ち込んで体裁が崩れるのが嫌だったので画像で載せました。『立原道造詩集』(ハルキ文庫)より。

「ゐる」の反復はブレーキング。詩の中なのに散文的文末で、ことあるごとに意味を止めてしまっている。でもそこにエモさが溢れる。多分、みちきゅんの歌うような旋律の中でこそ活きているように思える。悪い言い方をすると、ハンドリングに自信があるからできるエモ。さらに、三連目の「ゐた」だけ変則最大限エモにしてるあたりもニクい。

音楽は「今」が進行していく芸術で、それは過去を塗り替えていくことでしか享受できない。なのに抽象概念が言葉によって表すことができるようになってしまったせいで、「あ〜これはサビの繰り返しだな」とか「この旋律はビートルズのオマージュだ」などと考えてしまうけれど、基本的には「今」と「未来」の関係で成り立つ芸術と考えます。

前回も書いたゴリラ学者の話ですが、ゴリラに手話を教えたところ、アフリカで人間に捕らえられた時の恐怖を語ったそうです。

もしマイケル(ゴリラの名)が手話を覚えてなかったらどうなっていたかと考えた。トラウマは残っていたかもしれないけれど、記憶はずっと埋もれたままだったんじゃないか。言葉という道具を手に入れたために、過去を語れるようになり、結果として過去があらたに再現された。

山極寿一・太田光『「言葉」が暴走する時代の処世術』(集英社)より

再現や抽象化のためには言葉が必要で、さらにそこには「過去」が絶対必要だった。
もし人が現在とほんの少し先の未来との関係だけで生きていけるなら、過去は全く意味を持たないもののまま過ぎ、言葉もきっと要らなかった。「言葉なんておぼえるんじゃなかった(by 田村隆一)」。これもまた詩と科学の同じ終着点なのかもしれない。

言葉を忘れ去ることのできない僕らは、せめて言葉に残されたリズムに背を預けて、音楽のドライブを楽しむことが許されているくらい。コンマ1秒先の気配だけ感じて、分かんない分かんないと思いながらにゃんにゃん言ってる。そんな狂おしくも愛しい日々。

永田さんが恥ずかしいと顔を赤らめながら教えてくれた曲(妄想)、とても素敵でした。「いかないで」「いかないで」……しかし人は行く、時も行く、取り残されるのは僕だけだ、人は時だ、でも僕だけは人でも時でもない。そんな無意味な「意味しりとり」。連呼されると、たしかに何かが醸成されていくようです。

僕がまだビジュアル系をやっていた頃、FANATIC◇CRISISというそこそこ人気なバンドがありました。「beauties-beauty eyes-」という曲では「大丈夫」「大丈夫」と同じメロディで2度繰り返して歌います。なぜか今でも困った時や不安な時に、この曲に合わせて「大丈夫」と2度唱えてしまうのです。音源はありませんでしたm(__)m
不思議なもので「いかないで」は言えば言うほど切実さが増していくのに、「大丈夫」は重ねると嘘っぽくなってしまいますね。2度くらいがちょうど良いです。

同じタマが2つ、これもたぶんキンタマです。
ではタマ!


2020年3月27日 矢口れんと 拝


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