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檸檬読書記録 『まあだだよ』

黒澤明『まあだだよ』を読む。


この作品、前に「読書日記」の方で内田百閒のことを少し書いた際、内田百閒なら『まあだだよ』という黒澤明監督の映画が良いと教えて頂き、調べてみたら本が出ていて、映画は家にDVD機器がないので、とりあえず本の方を見てみることにした。

この本、3部構成になっていて、1部は「エピソード」、2部は「シナリオと画コンテ」、3部は「メイキング」になっている。

本当は、内容が知りたかっただけだから、2部のシナリオだけを読もうと思っていた。
けれどせっかくだからと、軽い気持ちで1部から読んでみたら、驚愕。あまりにも面白かった。

1部には、『まあだだよ』という作品についてだけでなく、映画についても書かれていた。


映画は、具体的なディテールでものを言っているわけで、細かいところから全部設定しなければものが言えないし、お客さんにも伝わらない。(略)映画を見た人の血になったり肉になったりするためには、細かい部分でちゃんと描いていかなければならない。僕は、そこが映画のいちばん大切な部分だと思っている。


黒澤明監督は、その細かいところのこだわりが凄かった。
本物ではないが、ビールはビール瓶やラベルを含めて当時のもの、煙草や小道具も忠実に再現し使っていたのだとか。
黒澤明監督は特に自然を大切にしていて、その自然さをどこまでも追求する熱量には、凄いを通り越して唖然としてしまう。もう尊敬と脱帽しかない。


そういう、目に見えないところだけれども、どこを撮ってもだいじょうぶだということでやらないと、
「この程度は分からないや」
と言い出せば、きりがなく雑になってしまうので、何から何まできちんとやるという心構えでないといけない。


今の時代、ここまでこだわりを持って、細部まで神経をとがらせて作品を作っている人が、どれだけいるのだろうか。
そもそも、いるのだろうか。
ただ自分が無知で、知らないだけで、たくさんいるのかもしれない。いや、きっといるのだろう。
でも黒澤明の凄さは、それだけではない。


「今日はこれまで」
ということで当日の撮影が終わると、すぐさま小道具は、テーブルの上に置いてあるたくさんのビンやグラスのビールがどこまで入っていたかまで、すべてをチェックする。
「そこまでやらなくていい」
と僕は言うんだけれども、パンをどこまでかじったか--パンはもちろん取り替えるのだけれど、食べ物の減り方、ビールの残り方まで翌日の撮影のために同じ状態を保たなきゃいけない。
やはり、そのぐらい良心的にやらないとちゃんとしたものは撮れない。実際にどう映るかということではなくて、心構えの問題としてそういうことが必要なのだ。


もう凄すぎやしないだろうか。
細部まで抜かりがない。でも、だからこその自然さなのだと感じた。
そして何より凄いのが、黒澤明監督だけでなく、言われずとも、それ以上のことを周りがするということだと思う。


「馬鹿鍋」の肉は、その名の通り馬と鹿の肉だが、
「肉なら何でもいいよ」
と僕は言ったけれども、ちゃーんと鹿の肉と馬の肉でやっていた。
仕事というのはそういうもので、陰になって見えないところまでやっていて初めて“或るもの”が出てくる。私は、
「どんなにつまらないものでも一生懸命やってみろ。おもしろくなるぞ」
と喧しく言っている。おもしろくなると自然に努力するようになるものだ。


周りもきちんと監督を理解し、信念を受け継ぎ、自らも全力で取り組もうとしている。
監督だけではなく、周りも一体となって映画に真摯に向き合い、1本の作品に取り組み、作ろうとしている。

今や、なんでも簡単に手に入る時代だ。道具も揃い、実物を使わなくても、パソコンだけで映像を作り上げられてしまう。
けれど決して、それが悪いというわけではない。でも、何かしらの差は出てくる気がした。
映像美というものは、昔とは比べ物にならないくらい、今の方が断然凄い。だけど、見て圧倒し驚き惹き込まれる力は、やはり昔の方が多い気がする。(ただ、個人的な意見です)
黒澤明監督の言葉で言うなら、「見た人の血になったり肉になったりする」濃度が、やはり違うのではないかと思った。(見たこともなく、映画の知識もそんなにないくせに生意気言うな、という話だけれど…。すみません。でも)
だからこそ「世界のクロサワ」と言われるまでの存在になったのではないかと感じた。


この本には『まあだだよ』以外の、黒澤明監督の作品についても書かれていて、他の作品のこだわりも紹介されているところも見どころだ。
例えば、『赤ひげ』という作品の「雪」について。
例えば、『天国と地獄』という作品の「鉄道」の「光と影」について。
けれど個人的に1番面白いなと思ったのは、『八月の狂詩曲(ラプソディ)』という作品の「畑」の話。


『八月の狂詩曲(ラプソディ)』の家から見える畑の作物は、撮影に入る前の春から種を蒔いて育てたものだ。だから畑が落ち着いて見えるのであって、いきなり即席に作ったところで、ああはならない。
(略)
その畑で獲れたキュウリやナスはスタッフがみんな収穫して食べていたが、それぐらい準備しないと畑も落ち着いて見えない。


確かに。
畑をやっていると分かるが、即席はやはり即席感が出る。本物の植物を植えていても、どこかよそよそしく造花めいた雰囲気が出てしまう。
とはいえ、種から蒔いて作るというのは、凄い。
そしてこの話には、他に面白いところがある。


そのかわり大笑いしたことがあった。カボチャ畑のつもりだったものが、苗を間違えて植えたために、瓢箪畑になってしまった。
「なんだ、おい。瓢箪を畑に植えるやつがいるかい」
と言ってみたものの、葉っぱが広がっちゃったから、その上にカボチャを置いといてすませた。


慌ててカボチャを置いているところを想像して、思わず笑ってしまった。
こだわりはあるけれど凝り固まりすぎず、臨機応変に対応していくところもまた魅力だなと思った。

本当に、この本はキリがないくらいに興味深いエピソードがたくさん詰まっている。
とはいえ、1部はそこまで長い訳ではない。ほんの数十ページしかない。にも拘わらず、どこも良すぎてこんな長さになってしまった。その上まだ1部。


2部は、シナリオと画コンテが書かれており、これまた見所満載で、なんと言っても黒澤明自身が描いた絵が凄い。
本格的なのだ。
モノクロや線、塗ったとしもさらっとではない。カラーであり、しっかりと細部まで塗られている。そしてこれまた凄い似ている。画コンテというよりも、最早立派な1枚の絵だ。
(後から教えてもらったのだが、黒澤明は、元々画家志望だったのだとか。なるほど、納得だ)
その上、1枚や2枚ではない。何枚、何十枚もあり、全て色があり細かく書かれている。

映画を1つ作るのに、ここまでするだろうか。
でも確かに、絵だとしっかりと背景が伝わってくる。監督が作りたいと思っているイメージが、他の人に伝わりやすく、だからこそ役者もスタッフも一丸となって作り上げることが出来たのかもしれないなと思った。

もう2部でも関心が止まらない。(話の内容は、後ほど)


3部は、メイキング写真と共に、撮影の流れが書かれている。
これもなかなか興味深く、天候に振り回され四苦八苦しながらも、上手いところをくぐり抜けて撮影していた。特に雨には悩まされていて、監督はもしや雨男?と想像すると、余計に面白かった。

撮影は、1から順番に撮っていくものと思っていたが、天候に合わせてバラバラに撮っていくらしい。奥深い。(今の映画撮影も同じかは分からないが)やはり小説とは作り方が違うのだなあと思った。

そして写真もまた良い。
撮られている側だけでなく、撮っている側、監督の方の写真もあって、それがまた良かった。
映画の裏側について、普段あまり知ることは出来ない。けれどそれを覗ける本作は、とても魅力的に感じた。


もうこの本、最初から最後までどこもかしこも良くて、ジタバタする。書きたいことが多すぎる。
だから、映画『まあだだよ』を観た人だけでなく、観ていない人にも是非とも読んで欲しいと思ってならない。観ていなくとも、十分楽しめるから。自分も観ていない状態で、十分以上に楽しめた。

勿論、観ている人にも是非とも読んで欲しい。
読むことで、作品をより楽しめ、より好きになるんじゃないだろうか。
兎に角、たくさんの人に読んで欲しい、そんな作品だった。



本当は、途中でDVDデバイスを手入れてて、映画も観ることが出来たから、その感想も書こうと思っていた。だが、如何せん長い。
だから、1度ここで終わりにして、映画とシナリオの方は後日、まとめて投稿しようと思います。(投稿予定は来週)
本と同様、映画もまた素晴らしいので、「本編」に引き続き「映画編」の方も、続けて見て頂けたら嬉しいです。

好きが溢れ過ぎてまとまりがなく、読みづらくなってしまったものをここまで読んで頂き、本当にありがとうございました。
皆様に良きことがありますよう願っております。
ではでは。



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